生きる意味づけをもう一つできた話
「守る」とはなんだろうか。
今亡くなっている(殺されている)人たちがいていいという話ではない。尊厳を犯される人がいていいという話ではない。飢餓に苦しむ人がいていいという話ではない。安心して眠れない人がいていいという話ではない。死にたいと思う人がいていいという話ではない。私が今起きていることから目を背けていいという話ではまったくない。
その上で、
もし今、今という時点が、他者を知ろうとし、文脈を知ろうとし、知らないものを知ろうとする気概をもち、時間という軸を持って他者や社会や自分と対話をしようとする人が、昨日より1年前より100年前より、多くなっているのだとしたら、そしてそれによって人が人を殺すことがなくなる世界の実現が、例えば1000年という時間軸の中で近づいているのだとしたら、(この「だとしたら」は学んでいない仮定であることも自覚する)
私が今生きている意味を実感することができる。胸が締め付けられる。責任、という言葉を使えるだけの実感をまだ持てていないという自分も認知し、その実感は、責任とは違う地点から考えられたことだということも忘れずにいながら。
訴えをし続けている人たちを、(解像度や縮尺、レイヤーの共通認識を持たずにする良い悪いというジャッジをここでは省き)思考をもって行動を起こす人を、感性を研ぎ澄ませている人を、無垢であり続ける人を、リスペクトする。
学び、思考して、よりよいと思う方へ向かうために振る舞うこと。呼吸、関係、言葉、行動、私の(あなたの)すべての表現に意味があると思わざるを得ない。だから、生きる、と、またひとつ確かに思えたことを留めた。苦しく、嬉しかった。
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