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何故収束する

  逸脱は・・・軽やかな逸脱は、あの当時たしかに僕の美質だった。普通で無いことをすること。目立ちたがり屋の悦楽は、全てそこにあった。軽やかな逸脱というのは・・・戯言に過ぎないが、難しいのだ。私は逸脱そのものを嫌っていた。僕だけがちょうど良い逸脱の匙加減を知っていて・・・さらにその秘密が、世界の最奥にアクセスする暗号のように思えていた。少年の傲慢がもたらす飛躍というのは恐ろしい。同時に果てしない光のようでもある。あの当時たしかに僕は光り輝いていた。・・・これは、記憶の性質からいって当然のことでもある。しかしながら、より確実なことがある。今の僕はあの頃の僕の屍であるということだ。僕は15やそこらで死んだような気がする。・・・
  大袈裟で/自分本位で/鬱陶しいようなことを僕が言葉にする理由・・・それは憧憬かもしれない。記憶がもつ引力に頼って、僕は旅を・・・いや逃亡をしたいのだ。

  逸脱なるものを引き合いに出したのは、僕がいま、あることについて、実に凡庸な疑問を呈しているからだ。凡庸を逸脱の光・・・今は失われたその威光に照らしてみれば、夜明けのよう に・・・まざまざと全てを諒解できそうに思うからだ。

「noteでは、人の苦しみの経過が見える。そこで思う。見ていて思う。どうして多くの人は、“人と人とは分かり合えない”とか、“愛の力”とか、“人生に対する人の最終的な無力”とかいう、初歩的な定理に逢着するのだろう。いや・・・彼らは癒着してさえいる。そこから動こうとしない人もいる。何故だろう?  どうして、そんなところに収束して歩みを止めてしまうのか。」

  この問いに対する答えさえ凡庸だった。
  僕の懊悩は、単なる懊悩ではなくて、・・・「単なる懊悩」など、無いと思うが・・・輝かしい所持品、昔持っていた大切な個性と、それと拮抗する現実との均衡、それを求めることの過程だった。・・・そしてこれは不可能とさえ思えた!僕は運命なるものの陶酔を感じた。自分のこれまで・・・そう名付けられた欠損の多い有機的体系は、もはや否定することの出来ないほどの、否定を飲み込んでしまう程の混沌に肥大していた。つまり僕の生涯は、この五分の一世紀は、その突端に立つ私にとって、未知の、踏み入ることのできない海の中に差す岬の端に立つ私によって、全肯定されなければならないのだ。そして・・・認めたく無いことなのだが、それすらも凡庸であった。境地なるもの。僕の個性は実はそこを目指さなければならなかったのかもしれない。刈り尽くされた畑で遊ぶ子供が、ある時ほんものの麦を見たいと思って歩き出した。子供は地平線まで来た。麦は刈り尽くされているだろうか。

  僕は・・・今の僕は、少なくともそれを健気に拒み続けている。しかし、海が・・・絶え間なく僕を、僕らを・・・もちろん君をも拒んでいる海が、足元に嘲笑うかのように広がるのを、僕は美しいと思ってしまうだろうか。

  怒りとも、恍惚ともつかない混沌が、・・・その母なる混沌、全ての混沌の故郷、海に、無窮の青に、呑まれてしまうことを、僕は拒否できるだろうか。

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