社会人になって2年経った
つまり東京で仕事はじめて2年。いつもはQiitaで記事書いていますが、すごいポエムチックになりそうなのでnoteで書いてみました。
学生時代と就活
学生時代と就活2年前まで福島の会津大学というど田舎でコンピュータ理工学を専攻していました。大学在住期間はざっと10年。留年も1年ありつつ博士課程まで進んでいました。そこまで大学に残っていた理由は、なんとなく社会人になったら価値観や技術が固定されて自分が進みたいような人生になれないのではないか?と思っていたからです。とにかく実力を身に着けなければ思い通りも何も無いなと思って、アリアハンでスライムをひたすら狩り続けてレベルを上げ続けるみたいな学生時代を過ごしていました。大学で尖っている人は尖っていてHaskell, F#, Dart, Clojureみたいなのをガチでやる学生ばっかりで、とても刺激的でした。僕も御多分に漏れずScalaとElmという、とりわけ2つの言語に天啓を受け みんなこれで開発して幸せになればいいと思っていました。今もそうです。就活というほど就活はしていないですが、もはや使う企業は使う当たり前の言語になっていたScala。一応それを武器に面接なんかをしていましたが、途中からは御社でElm布教してやるからな覚悟しとけよ。みたいな感じに目的がすり替わっていました。福島と東京の往復をしながら就活は大変なんですよねえと社員の方と長話をしていたら、じゃあ明日最終面接ということで、と話を進めてもらい無事就活は終わりを迎えました。最終的に今の会社を選んだ理由としては、ビジネスとして硬そうでちゃんとしてそうだった、職種横断してコミュニケーションが取りやすくエンジニアリング以外も鍛えれそうだった。そんな理由からでした。ギークギークしたところは大学で十分経験してきたし、どうせアリアハンから新しいステージにいくのだから違う経験が積めたほうが明らかに良いと思ったからです。
Elmとドラクエによる印象づけ
ここからはざっとやったことを並べていきますが、初手は社内エンジニアが集まる勉強会の話を聞いてElmの布教をしました。他にも社内エンジニア全員入っているSlackチャンネルでElmの布教をしたりしたお陰で、Elm and ドラクエで大体一意に定まる社員ということで覚えてもらいました。会社ではニックネーム制度があり大魔王ゾーマの名をつけさせていただきました。キャラクターで印象付けるということは、コミュニケーションのネタにもなりやすいので全く知らないビジネスの人からドラクエの話を持ちかけられたり、突然なにかのチャンスを与えられるので何かと便利です。
リクルータのお仕事
僕の場合、学生経験も長かったということもあり学生のリクルータのお仕事をさせてもらうことになりました。これは本当に新しい体験で、まったく見知らぬ人といきなり30分の面談をして相手の情報を引き出し、どういう人で一緒に働きたいと思えるか、その人が会社に入ったあと満足できるか成長して会社に貢献できるかを見極める・・・こんな無理難題は・・・楽しい。最初は緊張して自分の話をするだけで精一杯だったですし、今も相手のことを理解できるなんてことは全然できないですが、単なる感覚ではなく心理学や勿論エンジニアリングの知識を元に戦略を立ててより濃い30分にしていく仕事は今でも難しくて楽しいです。おもしい話で自分が作っていくプロダクトを利用(ドックフーディング)して、このリクルータの仕事をしています。
プロダクトとユーザ
プロダクトは、HRMOSという採用管理システム(ATS)を作っています。未だにうまく説明できませんが、主に人事担当(やアシスタント)が新入社員・中途社員等の候補者の個人情報や選考状況を管理し採用活動を行っていくために使用されるツールです。人事担当とは恐ろしく多忙な人種で、会社が大事にしている価値観やそこで働くことの優位性・逆にどういう働き方はしていないのか等々を把握した上で求人ページを作ります。候補者は求人ページだけからやってくるものではありません。ビズリーチやリクナビ・マイナビなどの求人媒体と呼ばれるものから舞い込んできたり、社員から紹介されたリファラル経由であったり、エージェント経由であったり・・・。それらの候補者を捌いて捌いて選考を開始します。書類審査をして、次の面談・面接を面接官(社員)の予定を確認して慎重に慎重に設定をして、終わったら評価を入力するようにリマインドして、選考の進捗を確認をしては候補者に連絡を取ります。僕は面談・面接をする立場なので評価を入力しなければなりませんが、だいたい他の仕事を理由にしてサボります。そうすると、人事の方から催促が来ます。リクルータをやる立場とプロダクトを作る立場になって初めて人事の方、本当にごめんなさいと思うようになりました。人事担当のお仕事はそれだけではありません。入社をしてから社員がどう活躍したかしなかったかなどを分析し、市場の変化・会社の変化を捉えて、次の年の採用戦略を練ります。それをサポートするようなレポート機能もプロダクトは提供しなければなりません。本当にいろんな機能を備えているのが採用管理システムというものでした。
プロダクト開発
僕が入社してから担当したのは主にエージェントに関する機能で、エージェントと企業の橋渡しを推進するような部分をエージェントの情報を持っているビジネスの方やカスタマーサクセスの方と、ああでもないこうでもないって話をしながら企画しエイヤーーと開発する感じで日々を過ごしていました。開発自体の仕事は正直、学生時代にやっていたお仕事や個人開発とあんまり変わらないなと思いました。しかし、今までやっていたことをそのままやると何にも成長をしないと思い、その他の部分で力をつけようと考えました。大きく興味を持ったのは、SREとQAです。プロダクトは作って終わりじゃないです。その後、動かしてユーザが毎日毎日触るものですから不具合があれば当然見つかりますし、インフラが火を吹けば面倒を見てあげる必要があります。それをしなければ当然のようにユーザの業務は止まりますし、迷惑を掛けます。そこを軽視してしまえば、サービス提供者として詐欺行為を働いているのと代わりありません。僕もユーザとしてサービスが動いている・動き続けているのは当たり前だという感覚の持ち主なので、現場の裏側ではこんなに大変なのかと思いましたし責任感がかなり強くなったと思います。そして思うのです。楽をしてえな・・・と。暇さえあればプロダクトのどんなことが自動化出来たり、ミスがなく運用できるかを考え続けて、そのためのツールをいくつか作りました。もちろんElmで。一年も前に作った検証環境のデプロイツールが未だに使われ続けているのは、とてもおもしろいですね。作ってよかったです。このように開発したら当然のように運用もするんだ。開発に必要なリソースがでてきたら当然のように開発者が用意するんだ。そんな当たり前の感覚を身に着けさせてくれたSREには非常に感謝です。QAもほぼ同様で、ユーザに不具合を報告させてしまったらもう最悪の恥とするべきで、特に個人情報を取り扱うサービスなのでその取り扱いが間違っていたらプロダクトどころか会社がおしまいになってしまいます。不具合があったら当然のように直す必要がありますし、機能開発をするための障害になったりもします。そのため安全のために品質を上げるだけでなく、トータルで見た速さや信頼され続けるサービスのために品質を上げるのだ、という意識が強く身につきました。本当に頭の上がらない人たちばかりです。あるとき機能開発をしたくても思うように開発できない時期が続きました。これは本当にいろんな要因があります。成熟しているサービスが故に技術的負債もありますし、最初のころに想定していなかった要望が設計故に融通がきかなかったり、たまりにたまった障害に目を向けれていなかったり。もっとたくさん機能を提供してユーザからのフィードバックをほしいなと思ってしまう僕は新規開発できる場所は会社でないかな、場合によっては会社を辞めようかなとぼんやり考えました。ちょうど一年とちょっと前ぐらいでした。
新規開発へ挑戦
もうちょっと踏ん張ろうと考えていた僕に吉報が舞い込んできました。新規プロダクトの開発の初期メンバーになって欲しい。それは夢のような提案でした。覚悟も大きく決めました。僕は常識というものがとても嫌いです。人事の業務は大変なものです。だから、採用の質を落とします。であったり、開発の規模は大きくなったら運用も品質もおざなりになります。だから技術的負債も増えます。そんなプロダクト・プロジェクトには絶対にしたくないなという思いで快諾しました。本当に良いチームであるタイミングでは何かを妥協しそうになったり、僕自身も妥協しそうになったりしたときもありましたが、とにかくリカバリーが早く開発にちょうど1年ほど経った今でも品質は一定を維持し続けデリバリーの速度も毎日リリースができるぐらいを維持し続けています。もちろん不具合や障害はありますが、それをきちんと可視化し改善の手を打つような算段が着々と進みつつあります。この記事では語り尽くせないくらい本当にいろんなことがあった2年間ですが、主に一年目の振り返りを書いたところで力尽きそうなのでここまでにしたいと思います。(2年目を振り返るのはまた一年後かな・・・)
おまけ
最後にちょろっと私生活も大きく変わりました。福島のボロアパートで夏になると虫が家に入り込んできて毎年いろんな対策を練っていましたが、東京で仕事をするようになってからは埼玉の気に入った物件になんとなく決め。通勤が辛すぎて今は職場のすぐ近くになり通勤時間は半分以下になりました。住めば都でどこも良かったですね。とにかく今は最高です。2年とは思えないぐらい濃厚な時間だったなと思います(1/10も語れてないと思います)。