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正体

この記事について

 harmoe Advent Calendar 2024という素敵な企画を見つけたので参加しました。harmoeについてはこれまで長い文章を書いたことはなかったのですが、これを機に愛を語ってみたいと思います。


もうひとりの悪魔

 18世紀から19世紀にかけてのイタリアに、悪魔と呼ばれたヴァイオリニストがいた。その名をニコロ・パガニーニという。彼が残した曲の中に「24の奇想曲」というものがある。24の短い曲で構成されるヴァイオリンのための曲だが、このうち最後の一曲は特に有名で、現在までに多くの作曲家によって編曲・借用されている。

 Brilliant and badのティーザーが公開されたとき、この特徴的な旋律はきっとパガニーニへのオマージュだろう(*1)と思って咀嚼したのだけれど、それを言語化しないままここまで来てしまった。これから書くことはもう既に語り尽くされてきたことで、たぶん新規性はないと思うのだけれど、筆者自身がBrilliant and badをどんなふうに受け取ったかを感情多めで語っていきたい。

ニコロ・パガニーニ

ヴァイオリンと弓を使っていること以外に、パガニーニが他のヴァイオリニストと共通しているものはない

"Nicolo Paganini: His life and work"(1907)

 ニコロ・パガニーニは当然ながら我々と同じ人間だった。父から虐待じみた音楽の手ほどきを受けた、痩せ細った男であったとされる。6歳の頃には既に天才として持て囃され、その噂は瞬く間に国王から農民にまで知れ渡った。虚弱な体質に情熱を備え、長い間休んだかと思えば戻ってきては精力的に活動した。演奏以外のところでも、彼にはいろいろな噂がある。強欲であったとか、気難しくて舞台に細かい注文をつけていただとか、ギャンブル狂いで商売道具の楽器を手放すほどだったとか、自らと同じ貧しい生まれの子供たちのための貧民救済コンサートを積極的に行っただとか。

どうしてたしなめるの?
どうして「いい子」がいいの?
誰かの決めたことに従う必要はあるの?

Brilliant and bad(2023)

 彼は聴衆を楽しませるためならどんなことでもするタイプの演奏家だったらしい。古典を演奏することも、超絶技巧見せつけるような自作曲を演奏することも、4本あるうちの弦のうち真ん中の2本をあからじめ外すような特殊な演奏をすることもあった。小さな王女に苦手な音があると事前に聞いたら、それを避けた演奏を用意することも。優れた演奏者であるためなら、彼は努力を怠らなかった。彼の名を優れたものの代名詞として扱われたりもする者もいれば、明確に敵意を向ける者もいた。ある指揮者は演奏旅行に来た彼の実力を疑い、到底弾けないだろうと思われるような新曲を彼のために用意した。彼はそれをリハーサルではのらりくらりと交わして一切弾かずにとっておき、本番で完璧に弾ききって度肝を抜いたりしたという。ある聴衆が彼の共演者をばかにする意味で口笛を吹いたことがあった。彼は楽器でその野次の口笛をまねて仕返しをしたという。その態度に賛否両論吹き荒れようとも、少なくとも彼の演奏技術によって影響を受けた音楽家たちが大勢いたこと、そしてその一旦が現代までに伝わっていることは間違いない。
 パガニーニは清廉潔白な人物ではなかったにしろ、クルエラのように明確な意図を持って他者を害するような人物でもなかったのだろう。それでも彼を不快に思って彼の欠点に尾ひれをつけて悪口を言いたい人がいたのだと思われる。その技術は同業の者に絶望を味わせるには十分だったし、保守的な嗜好を持った人々にとっては不遜な人物のように見えたのだろう。(*2)
(考えすぎかもしれないけれど、Brilliant and badのMVではharmoeの二人の足元にぼかしがかかっていたり、空中を歩いているようなカットがあったりする。パガニーニが悪魔に魂が売ってその技術を手に入れたのではないかとの噂のせいで、彼の演奏会では地面に足がついているかを確認する客がいたらしい)

クルエラ・ド・ヴィル

 If I cared about anyone or thing, I might have died like so many brilliant women with a drawer full of unseen genius and a heart full of sad bitterness.

"Baroness", Cruella(2021)

 クルエラは黙っていられなかった。育ての母からの愛を受け、善くあろうと努力したが、生まれ持った性質がそれを許さない。2021年の映画「クルエラ」ではそんな人物として描かれている。生来の髪色を馬鹿にされたらただ言われているだけではいられない、仕返しをしてしまう。斬新で美しいドレスを目にしたら母親の言いつけを守れない、好奇心のままにパーティに忍び込んでしまう。孤児になっても飢えたりしない、泥棒になって食い扶持を繋いでいく。(*3)

どれだけ近づいても指先すり抜けてく
わたしの物語はここで終わるはずなんてない

Brilliant and bad(2023)

 クルエラの何がいけなかったんだろう。人を叩いたこと?人の言うことを聞かなかったこと?人のものを盗んだこと?でもそうでもしなければ、彼女は虐げられたままだったかもしれない。だからと言って彼女の罪が許されるわけではないにしても、彼女に石を投げられる人がどれだけいるだろうか。

善と悪

 まったく新しいことをして、世界を驚かせた。自分の才能に従って、自分の思いのままに。世間の目が彼/彼女に向けられれば、それに応えるようにどこまででも行った。この二人につけられた「悪魔」という名前は、その存在の異端さに対する形容詞だったんじゃないだろうか。(*4)

ドキドキは止められないよ
好奇心の加速度が上がってく
毎日冒険してみたいの私

きまぐれチクタック(2021)

 「悪魔」という二つ名は、烙印か勲章か。彼/彼女は大衆を熱狂させる存在だった。彼/彼女の紡ぐ作品に心を躍らせた人が大勢いた。それが他人のためではなかったとしても、誰かにとっては間違いなく光だっただろう。それは、他者を圧倒し魅了するような才能を持った者が、残念ながらいわゆる常識にそぐうような性格までは持たず(*4)、それでも屈せずに己を貫いた結果として大衆がつけた呼び名。彼/彼女はただ自分であっただけなのだ。

内圧と外圧

 破壊的で恐ろしいけれど、魅力的で目が離せない。二人の共通点を説明するならそんな言葉になるだろうか。両者とも、自身の才能を磨き上げて高みを目指していく、手の届かないところにあるものを強く望む人物だったように見える。クルエラの破壊的な振る舞いのきっかけは自身を異端だとして除け者にしようとする人への怒りだった。パガニーニの方も、おそらく彼に追随する演奏者がいなかったから、結果的に破壊者のように見えた。最初から誰かを攻撃することが目的だったわけじゃない。自分の生まれ落ちた形が世界の求める形に合わなかったことが、すべての発端だったはずだ。

なんて儚く幼いの
尊ばれるべきときめき

VOICE(2023)

 人間は自らが生まれ落ちる環境も才能も選べない。誰からも奇異の目を向けられることのない「普通」の性質を持って生まれてくることや、「普通」の範囲の努力をすれば「普通」に望んだものが得られるというのはなかなかに恵まれているということなんじゃないかと思う。たしかに彼/彼女の中には「悪」の種があったのだろうけれど、それを芽吹かせて大輪の花にしたのは本人だけの力ではないはずだ。彼/彼女が間違いなく「悪」であったと、決して「善」でなかったと、本当に言えるだろうか。


悪魔とharmoe

 では、この歌を歌うharmoeは?一瞬ごとに色を変える表現力も、まったく正反対の二つの声が重なったときの美しさも、私にはまるで魔法みたいに見える。私は舞台の上の彼女たちを見るのが本当に好きだ。イベントに行けばいつも満たされた気持ちになるし、気分を上げたいときはいつだって彼女たちの曲を聴く。彼女たちは私の日常を照らしてくれる光だ。ならば、harmoeは誰にとっても明るく輝く白い存在なのか?たぶん、きっとそうとは限らない。例を挙げるなら、舞台に上がる人の後ろには、その何万倍もの舞台に上がれなかった人がいる。残酷に聞こえるけれど、これは珍しいことでも特別なことでもない。私たちだって幾度となく同じ立場になったことがあるはずだ。私たちが何気なく座っている椅子は、誰かが望んでも座れなかった椅子かもしれない。誰かにとっての壁に、不倶戴天の敵に、もしかしたら悪魔にだってなっている可能性は誰にだってあるはずだ。全方位にとっての「善」であることは、この世界を構成する要素の一つである限り不可能なんじゃないだろうか。

あなたと私は鏡合わせなの

Unfair Mirror(2023)

 善悪はあいまいだ。物事は見る角度によって表情を変える。ならば、善悪の判断は、観測者である私自身にしかできないのではないだろうか。あの人が悪魔のように見えるのは、私にとっての悪魔だからだ。他の人にとってもそうとは限らない。ならば、悪魔を悪魔をたらしめているのはその罪ではなく、欲望なのではないか。悪魔の正体は、私たち自身の中にあって、私たち自身を傷つける欲望のこと。ほんとうの悪魔は、私が座りたかった席に座っているあの人じゃない。私が抱える、あの人への嫉妬だ。手に入らないものを追いかける、その強欲さだ。そしてそれらは、すべて私そのものだ。その感情なくして、私は私ではいられない。

メチャクチャでグチャグチャでそれでも生きて行く

QUEEN(2023)

harmoeと私

 Brilliant and badは、他でもない私たちの物語なんじゃないかと思って聴いている。そして、harmoeのこういうところが好きだなあと、いつもアルバムを聴きながら思っている。名前もなくその辺に転がっているような感情を拾い上げて、それを宝石のように輝かせるところ。きらきらした曲に、綺麗ごとではない歌詞が乗っているところ。肯定も否定もせず、ただそこにあるものとして美しく描いてみせるところ。
 harmoeが私の前に現れたとき、それは私の中の固定観念を破壊するようなまったく新しい存在だった。私が知っているアイドルと比べると物語や演劇の要素が強いし、物語や演劇と比べると音楽の要素が強いし、音楽と比べるとアイドルの要素が強い。彼女たちが何なのか説明するのが難しいのだ。もしかしたらクルエラとパガニーニに熱狂した人もこんな気持ちだったのかもしれない。harmoeという固有名詞があって助かる。
 こんなに長い文章をつらつらと書いた人が言うことじゃないかもしれないけれど、正直に言えば細かいことなんかぜんぶどうだっていい。舞台を見上げたとき、ヘッドフォンをつけたときに自分の中に湧き上がる幸せな感情が私の中のharmoeのすべて。そこにあるのが善でも悪でも、嘘でも本当でもなんでもいい。好きなのだ。harmoeが紡ぐ物語と、はるちゃんともえぴの声と踊りで表現される世界を、これからもずっと見ていたい。


注釈(*)

  1. 公式にこの説が明確に肯定または否定されているところを見つけられていないのでこのような書き方になった。もしあればただの見落しなのでご教示いただきたい

  2. 私はパガニーニの伝記を読んでいて愛いやつだ(上司や同僚として彼を持ちたいかは別として)と思ったが、自分もあまり品行方正でない者として、ちょっとした「こいつなんか変なやつだな」という印象が積み重なって悪く言われることがあるのも分かるなあと思ってこの書き方になった。例えば稀代の選手である大谷翔平さんがどんなに信じられない結果を出しても「悪魔」と呼ぶ人はあまりいないと思うのだけれど、これは彼の日頃の端正な行いの積み重ねによるものなんじゃないという具合

  3. 話が逸れるのだけれど、この映画でクルエラとバロネスを分けたのは他者への愛であると描いているように見えた。いつでも彼女の味方であろうとした育ての母とホームレス仲間への愛

  4. クルエラに関して、世間は彼女の破壊的な性質や攻撃性の強さを知っていても実際に彼女が犯した明確に人の権利を奪う行為である無数の盗みのことはおそらく知らないので

参考文献

  • Stephen Samuel Stratton: Nicolo Paganini: His Life and Work, 1907, Charles Scribner's Sons
    (角英憲訳 『哀しみのヴァイオリニスト 人間パガニーニ伝 』,2022,全音楽譜出版社)

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