創氏改名の真実
「日本の名前を強制された」、「妻は夫の氏に強制された」という主張をよく目にするが、果たしてこれは真実なのだろうか。じっくり見ていきましょう。
創氏改名とは
1939年(昭和14)11月1日に制令19号、制令20号が発布され、制令19号が「創氏」、制令20号が「改名」にあたる[1]。創氏が問題視されることが多いので、このブログでは主に創氏を中心に解説していきます(本貫も基本的には制度と関係ありませんし、説明がややこしなるので割愛いたします)。
創氏改名は南総督の肝いりの政策
1936年(昭和11)8月、南次郎が第七代総督に就任する。南は就任の諭告の中で「内鮮一体」と「鮮満一如」という二大スローガンを示した[2][3][4]。簡単に言うと朝鮮、満州は日本と一体であり、資源開発、民心の向上などで生活の底上げを図ることによって理想的な統治ができるというものである。1937年(昭和12)に支那事変が勃発すると南総督は官民協力体制を整え、二大スローガンの徹底に力を注いだ。内鮮一体を具現化する「創氏改名」、「国語教育」は根本から皇国臣民を図り、徴兵などの戦時体制に備えるという目的もあった[5]。
創氏改名の目的
朝鮮では従来男系の血統を重視し、女性は結婚しても生涯父親の姓を名乗り続けることで大家族制度を維持し、一族の範囲を広げてきた。しかし世界的には個人主義が進み小家族制度に変化してきた為、他民族とのミスマッチが起こっていた。一部の朝鮮人からも「結婚しても実家の姓を名乗るのは、同じ家族になった気がしないから、家族らしく感じるような制度がある方がよい」と度々陳情されていた。また朝鮮では古くから「異姓養わず、同姓娶らず」という厳格な掟がある。例えば李さんは朴さんを養子に迎えることは出来ず、李さんの同士の結婚は出来ないということだ。創氏改名では異なる氏であっても養子縁組は可能となった。一方北海道ではアイヌ人の「ブレチンアウレリヤン」や「チェーブタイブロコーベ」らの改名を許可しているので、朝鮮半島でもこれを許可しないわけにはいかないというのも理由の一つであった[6]。
また朝鮮の姓は僅かに326しか存在せず[7]、五大姓「金・李・朴・崔・鄭」だけでも人口の54%を占めた(20世紀後半)[8]。そのため郵便の配達、納税告知、裁判、警察や役所の呼出、私生活上のコミュニケーションに於ても様々な問題が起こっていた[9]。小学校のクラスでは同姓同名が4,5人いるのが珍しくなく、女学校で19人も被った例もあった。街を歩けば潰れかけの薬屋の門札に「李完用」、鼻をつまんで通り過ぎたい居酒屋のすすけた柱に「李完用」、道端でつかまえて飛び乗った人力車夫の笠に「李完用」というエピソードも残っている[10]。
主な時系列
1936年
8月5日
・南次郎が第7代朝鮮総督して就任。所信表明演説で「内鮮一体」を強く打ち出す。
1937年
7月7日
・支那事変勃発。
1939年
11月1日
・制令19号及び20号を発布。
12月
・南総督は「日本人風の氏は強制ではない」と表明。
1940年
2月11日
・創氏改名の手続きが開始。期間は8月10日までの半年間。
3月5日
・南総督は定例局長会議にて、創氏は強制ではないことを改めて強調。
4月15日
・総督府法務局長が各地方法院長に対して制度の周知徹底を要請。
4月23日
・南総督が道知事会議において周知徹底について言及。
6月12日
・釜山地方法院長が、府尹邑面長に全戸数の届出を配慮するように要請。
制度の内容
日本人風の氏にする時は期間内に行政に届出必要があったが、従来の姓を氏にしようとするときは、特別な手続きなど必要なく放って置けばよかった[11][12]。氏の設定は基本自由であったが、歴代天皇や宮家にまつわる御名、御諱、追号、御称号などは禁止されていた。さらに公爵、侯爵、歴史上の人物の氏や、自分の姓ではないもの、例えば李さんが朴という氏を設定することも禁止されていた[13]。
氏が決まったら1940年8月10日午後12時までに、本籍または所在地の府、邑に、海外在住のものは所轄領事、内地在住のものは市町村長に届け出ればよかった。料金は無料であった(改名の場合は1人50銭。のちに一家族50銭に値下げされた[14])。
姓を氏に変えたという誤解
「姓を氏に変更した」「姓は残っているが形骸化された」という意見も多く目にするがこれも全くの間違いである。前述した「異姓養わず、同姓娶らず(同姓不婚)」は創氏をすることで前者は解消されたが、後者の同姓同士で結婚してはならないという同姓不婚に関しては慣習法として維持された[15]。この為「姓」を戸籍に明記することで法的な価値を持たせ、それと同時に男系の血統も維持された。
つまり創氏改名後は、
夫婦同氏
になるが、
夫婦別姓
は従来からなにも変わらないのである。
強制説を考察する
総督は再三にわたり「強制ではない、誤解を解消せよ」とを念押ししてきた[2][3][4][16]。それにもかかわらず、なぜ強制説が出るのか。そのポイントになるのが1940年4月23日道知事会議における南総督の訓示である。(長いので飛ばしても大丈夫です。メモをかねて長めに載せます)
上記を意訳すると「日中戦争は長期、持久体制を覚悟する必要がある。そのためには経済を強くし、国民は一致団結しなければならない。しかし経済界、知識階級の一部に批判的な態度をとる者がおり、これは甚だ遺憾で改善しなければならない。朝鮮の志願兵激増はスローガンの真意が浸透した結果である。創氏改名は内鮮一体をさらに進めるものだから、知事らも制度の精神を理解し管轄における市民に徹底してほしい」という戦時色がかなり濃い目の訓示である。インターネット解説や論文では戦時下という背景を考慮していないものが多いが、内地では1925年に治安維持法が制定され体制批判への取り締まりが厳しくなっていった時代である。創氏改名もそのような背景から平時とは一線を画す忖度が行われ、府・郡・島・邑・面で競い合うように盛んに奨励された。その結果一部不適切な例を招いてしまったことは容易に想像できる。しかし総督や総督府が「徹底」せよと明言しても、「強制」せよとは言ってないし、総督の過去の発言から「徹底=強制」と曲解するのは意図的であると言わざるを得ない。
実例から強制だという主張を考察する
セツさんは先祖代々の「姓」を捨てるわけにはいかないと思っていたらしいが、先述したように「姓」は従来通り何も変わらないのでこれは大きな勘違いである。複数の史料を確認したが手続きに関して不適切な例は、これ以外は見たことはない。最終的には344万戸が創氏をしたのだから、もし強制が普通に行われていたなら、同じようなエピソードが万単位であるはずである。
このような例もある。全北道の孫永穆(そんえいぼく)知事と忠清北道の兪萬兼(ゆまんけん)知事が届出期限である8月10日までに創氏をしなかったと新聞で批判され、翌月に罷免された、だから「強制」であったというのだ。しかしそれを報じた朝鮮時報はあくまでも「社説」において執筆した記者もしくは編集者が制度は強制ではないとはいえ、民衆の手本となる知事がこれでは困るという趣旨で批判しているのであって、この内容が制度上の強制や総督府の指示を示すものではないのは当然である。それに期限を過ぎても届出しなかったことが、強制ではなかったことをなによりも証明している。二人は知事解任後、孫永穆は総督府傘下の鮮満拓殖株式会社の取締役に、兪萬兼は朝鮮総督府中枢院参議にそれぞれ任命されている。この例で「創氏しなかったから罰が与えられた。だから事実上の強制だった」というのは、あまりにも強引な解釈という印象は否めない。
国会で強制を否定
1943年2月26日の帝国議会貴族院にて田中武雄朝鮮総督府政務総監がこのような答弁をしております。
政策が歪曲して進められるのは末端の官吏が影響しており、上層部もそのように指示した覚えがないから改めて調べてみたところ一部そのようなことがあったということです。つまり創氏改名の制度上の強制や、上層部による指示などはこれを公式に否定した。
枢密院でも強制を否定
1941年3月19日枢密院会議において秋田清拓務大臣と石塚英蔵顧問官との質疑応答がおこなわれた。
秋田大臣は「実際には非難の声が無くはないから、今後は少しも無理しないよう注意を加える」と強制は絶対にNGという日本政府の立場を明確にしていた。
なぜ8割という好成績が実現できたのか
「4月まで1割にも満たなかったのに、最終的に8割達成できたのは強制したからだ」と主張されることはあるが、一部不適切な例があったとしても短期間で8割を達成するのは不可能と思われる。もともと朝鮮は占い、祈祷、風水の類が好きな土地として知らているが、当時も五行相生説や陰陽説を使った氏名鑑定が流行った。戸主は一生懸命考えた「氏」を鑑定してもらうのだが、鑑定する度に違う結果が出て逆に迷ってしまったというのである[17]。これがスタート当初低調だった理由である。
もう一つの大きな理由は宗中会議と言われる一族会議での決定だ。この決定を経ないと一族は創氏しなかった。しかし一度本家が創氏を決めると数万単位のオーダーが入る[18][19][20][21]。前述したように朝鮮には326しか姓は存在しなかった。一族という巨大な集団がドン、ドン、ドンと存在しため、4月以降伸び率が急増し、最終的には344万件を達成した。内地在住朝鮮人の届出率が15%弱だったのは、半島よりも一族の結束が弱いためだと思われる。
実生活でも氏を強制されることはなかった
ピカソや川端康成もファンだった崔承喜という世界的な舞踏化がいました。彼女の夫は安漠、娘は安聖姫だったので創氏改名後の氏名は「安承喜」になりましたが、公には姓名の「崔承喜」を名乗り続けていた。もし姓を名乗ることが禁じられていたら、これだけの有名人を当局が放って置くはずはありません。有名人に与えられた特権なのかと言えばそういう訳でもなく、多くの一般人が俗称や通称を使っており、なかには表札に掲げることもあった。特に女性の場合は姓名判断や語呂や字面から、漢字を平仮名にしたり「子」を勝手につけーるケースも非常に多くあった[22]。
朝鮮風「氏」の主な著名人
洪思翊(陸軍中将)
金錫源(陸軍大佐)
白善燁(満州国軍中尉)
崔承喜(舞踏家)
朴春琴(政治家)
まとめ
・創氏とは「姓」の他に「氏」を新設することなので、「姓」がなくなることはない。
・「姓」と同じ「氏」にしたいときは届出をする必要はなかった。
・南総督は再三にわたり強制ではないと念を押していた。
・「姓」の同姓不婚や男系の血統を維持するという重要な役割は変わらなかった。
・創氏後も「姓名」を名乗ることは全く問題なかった。
・本家の号令により一度に数万単位で創氏された。
・内地では15%弱というのもそれを裏付けている。
出典
[1]朝鮮総督府官報,朝鮮総督府,1930-11-10
[2]『朝鮮施政に関する諭告,訓示並に演述集 : 自昭和2年4月至昭和12年3月』,朝鮮総督府,[1937] pp.4-5
[3]京城日報社 編『朝鮮年鑑』昭和16年度,京城日報社,昭和15 p.29
[4]諭告・訓示・演述総覧,朝鮮総督府文書課 p.2
[5]朝鮮軍事普及協会 編『朝鮮徴兵準備読本』,朝鮮図書出版,1942 pp.97-100
[6]『朝鮮』(298),朝鮮総督府,1940-03 pp.26-27
[7]今村鞆 編『朝鮮の姓名氏族に関する研究調査』,朝鮮総督府中枢院,昭和9 p.62
[8]『現代コリア』(385),現代コリア研究所,1998-10 p.50
[9]今村鞆 編『朝鮮の姓名氏族に関する研究調査』,朝鮮総督府中枢院,昭和9 pp.490-491
[10]鷹橋掬二 著『日の丸少年の死』,新生社書店,1943.2 pp.123-124
[11]『京城彙報』(219),京城府,1940-02 p.25
[12]『協和事業彙報』2(2),中央協和会,1940-03 p.2
[13]同上p.4
[14]『日本』54(1),日本学協会,2004-01 p.32
[15]『朝鮮』(298),朝鮮総督府,1940-03 pp.28-29
[16]「創氏しない長官 果して責任を解せしや 牧民官としての値打なし」.朝鮮日報,1940-3-6 夕刊二面
[17]「創氏届出期限迫る 一層の理解を切望 野口大田府尹談」.朝鮮新聞,1940-05-12 p.8
[18]『日本』54(1),日本学協会,2004-01 p.34
[19]「南鮮の姜氏 數百名一齊に創氏」.朝鮮新聞,1940-02-17 p.8
[20]「この現象は? 創氏は小作人が多い」.京城日報,1940-04-07 p.8
[21]「儒林九百餘名 一齊に創氏 定期總會にて决議」.朝鮮新聞,1940-04-18 p.2
[22]生命保険経営学会 編『生命保険経営 = Journal of life insurance management』13(5),生命保険経営学会,1941-10 p.841
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