それではさようなら

序文
私は元々デザイナー、自称絵描きである為、三文文士にも劣る文章しか書けない。
しかし今回は書かなければならないと思った。
だから書いた。それだけである。
それでもよいと思える諸兄にだけ読んでいただければいい。

二千二十三年七月二十二日
ワーキングプアのアライグマ
またの名を
老舗のきんたま屋 快より、

最愛の友人 ジェン鬱
またの名を
偉大なる文士 上総とろに捧げる追悼文


私は別に井伏鱒二や太宰治のファンでもなければ、田中英光のファンでもない。敬愛するジェン鬱(以下、上総とろと呼ばせていただく。)がARuFa氏の真似をしてかよく文章の最後にそう付け加えていたのを思い出したからだけである。

上総とろが消息を絶って二週間となる。
初めはいつもの虚言自殺かと思っていた。
そう思ったのは上総とろが『ジェン鬱』になってから連絡がつかない事が多くなったからだ。
昨年の十二月に私が関東を離れる際、最後に送別会を開いてくれたのが上総とろとの事実上の別れとなった。現代の文明の力というかなんというか、TwitterやLINEでは定期的に話を出来ていたのは一昔前から考えたらとても考えられない事だろう。消息を断つ前日には「一緒にホルモンの恋のスペルマをまた踊ろう」と会話したばかりだった。

私は毎年、夏に蝉が鳴きはじめると「蝉が鳴いている。」と上総とろにLINEを送るのだ。その一文は、上総とろの執筆した小説の中で最も素晴らしいものである(と私は思っている)『君の肉、夏。』の冒頭の一行だ。そうすると必ず『肉』の話になるのだが、そのLINEを送った時にはもう上総とろはこの世に存在しなかった。このメッセージに二度と既読が付くこともなければ、いつものように『肉』がどれだけ素晴らしい作品か、という話になることもない。只々メッセージアプリのタイムラインに埋もれていくだけなのである。
その現実が、もう上総とろはこの世にはいないのだという真実を突きつけてくる。上総とろは今年、蝉の鳴く声を聞くことなくこの世を去ってしまったのだ。

数年前に上総とろと収録していたラジオを聞いた事がある諸兄はご存知だろうが、私は無神論者である。きっかけとしては小学生時代に毎日父親にぶん殴られていたのだが、神に祈っても、いくら賽銭箱に小遣いを注ぎ込もうと一向に現状は変わらなかったからである。
まあ、金を注ぎ込んだら救ってくれる神なんてクソ喰らえだが。
そうして私は小学五年生にして神はいないと悟った。それからは、ただひたすら己のみを信じて生きてきた。

そこで困った事が起きた。
一つ目は、最愛の祖母が大学一年生の十二月に亡くなった事だ。父親に願い出てなんとか通夜と葬式には参加させてもらえたが、骨を拾うことは許されなかった。
今でも思い出すだけで父親に対して抵抗できなかった自分に腹が立つ。
まぁ、人はいつか死んでしまう。今まで死ななかった人間などこの世には存在しないだろう。死んでしまう事自体は自然の摂理である。
しかし、である。私には祈るものが無いのだ。あの世の存在も、死者を救う神の存在も否定して生きてきた。十年もそう思い続けていたのにいざ愛する祖母が死んだら天国へ行ってほしいなんて思うのは虫が良すぎる話だ。そんな自己矛盾は許されないと思い、涙を呑んで見送った。
当時から希死念慮の強かった私は「もしあの世というものが本当にあるのならばすぐに会えるだろう」と思い、祖母の遺体に向けて「さようなら」ではなく「またね」と、声をかけたのをハッキリと憶えている。

そしてまた困った事が起きてしまった。
言わずもがな上総とろの死である。
前述の通り、2日ぐらい連絡が取れなかったことなどザラにあったので、その日もいつものように実家に回収されたのだろうと思っていた。
嫌な予感がしたのは2日目の夜のことである。上総とろとの共通の友人(今は大切なパートナーだが)から
「上総とろと二日間も連絡が取れない。何か知らないか。」
と、連絡が来た。私はそのような敏感な「勘」を持ち合わせていなかったので、
「二日前に首吊り失敗してから音沙汰ないね。」
とさらりと答えたのを覚えている。
次の日の朝、月曜日、通勤電車の中で蝉の鳴き声を聞いた。今年初めての蝉の鳴き声である。
私は、朝六時三十四分頃、
「蝉が鳴いている。」
と毎年恒例のメッセージをLINEで送った。
既読がつかないことなんて当たり前だったのでそのまま無視していた。
その日の二十三時十五分頃、上総とろの訃報を共通の友人から知らされた。最初は何を冗談を言っているんだと思った。上総とろが死ぬわけがない。そんなはずはない、と。
しかし冗談を言い合うような友人ではない。
突如突きつけられた事実から逃げようとTwitterを開くと、追悼の言葉でタイムラインは溢れかえっていた。次の日は仕事をできる状態じゃなく、休みにしてもらった。

同人界隈というコミュニティで知り合った「上総とろ」は、アライさん界隈の「ジェン鬱」として死んでいったのだ。それは、私の知らない人間のような気持ちであった。私が知っているのは「ジェン鬱」ではない。一人の偉大なる文士の「上総とろ」である。しかし一応アライさん界隈でも相互ではあったし、そもそも一緒にアライさんになろう、と四年前に誘ってきたのは上総とろである。(実際のところ、ラジオの六作目でも言及しているのだが、諸般の事情でブロックされていたり、一方通行状態だった期間が長くあったが。)

上総とろは「ジェン鬱」になり変わってしまったように私は感じる。上総とろは「ジェン鬱」を演じていたのではないだろうか。
いや、これには語弊があるかもしれない『演じなければならない状態』に陥ってしまっていたのではないか。私にはそう思えて仕方がないのである。
アライさん界隈という中で、「ジェン鬱」はフォロワーも多く、それに比例して信者も多かったように感じる。人々は「ジェン鬱」という存在を求め、「ジェン鬱」はそれに答え続けた。

共通の友人と話していて、二千二十年四月辺りから、上総とろがおかしくなっていった、という話になった。その時期は、丁度アライさん界隈が始まり、上総とろが社会人になった頃でもあった。

私事の話で申し訳ないが、私は新卒での就労に失敗した所謂負け組というやつである。いや、新卒での就労には成功した。しかし場所が悪かった。
段ボールの印判を作る会社にデザイナーとして就労したのだがこれが不味かった。パワハラ、セクハラ、挙げ句の果てにはレイプ未遂事件。労働時間は朝五時から夜中の二時迄。休憩なし。保険年金残業代なんて勿論ない。そんな中、親からの圧力と会社からの圧力の板挟みになり、四ヶ月で退職してしまった。社会人としての一歩を大きく挫かれたのだ。
皆、忘れてしまっているかもしれないが、電通に勤めていた女性が自殺して問題になるまで、デザイン業界、広告業界は酷いなんてものでは済まされない有様だった。
残業は当たり前、徹夜は当たり前。地獄のような納期と戦う。そんな中で鍛え抜かれなければならない。そこから溢れたものは「はみ出しもの」だという風潮で、再就職先を探しても退職理由を聞くとどこも取り合ってくれない状況が続いた。

だから私は新卒での就労がいかに大変であるかというのは知っているつもりでいる。
上総とろも全くの分野違いのシステムエンジニアの派遣会社などというところに勤めて非常に苦労したと思う。そして、最初の歯車の綻びはそこから始まってしまったのではなかろうかと私は推測する。

アライさん界隈というのは、汚い言葉で言えば「狂人ほど名が売れる」世界だと私は思う。実際に私のような若輩者でもフォロー数の四倍以上のフォロワーがいる。同人界隈のTwitterではフォロー数の方が多い私ですら、だ。
この界隈は初期の頃からそうだった様に感じる。
自分のジェンダー論を雄弁に語る上総とろは格好の的だっただろう。知的な文章で討論に挑む上総とろは同人界隈では見たことのない姿だった。
そこでまた一つ、綻びが生まれたのだろう。

人々は己のジェンダー論をTwitterにぶつける上総とろを珍しがり、そして面白がっただろう。
上総とろも最初は良かったかもしれない。己の意見を堂々と世界に発信することができる場所を見つけたのだから。
しかし、人間というものは一つのことばかり考えているわけではない。家族のこと、友人のこと、恋人のこと、仕事のこと、数え出したらキリがない。そんな中でTwitterでは「ジェンダー研究で鬱病になったアライさん」として振る舞わなければいけない。上総とろは発達障害の影響もあってか、生真面目にそれを守り続けた。そしてそれを隠すように所謂裏垢というものを大量に生み出した。

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