DETOXGIRL

小さい頃、何を考えていただろう。
私は、どんな子どもだっただろうか。

なぎさちゃんを通園バックにつけないと幼稚園いけない!
ぴんくじゃなきゃランドセルいや!
ぷりきゅあと、ぴんく、おままごとがちゃんと好きだった幼少期。
ランドセルは結局親のゴリ押しで真っ赤のランドセルでした。

お友達が「おはなやさん」になりたい。といっていたので、枠が空いている「ケーキやさん」になりたいと言っている時期もあった気がした。

それ以外に選択肢なんてないと思っていた。

それが正解だと思った。

それは悪いことではないはずだ。
けれど、それが好きだった女の子な自分に、嫌気がさしている現在の自分がいる。

中学生の頃も、高校生のころも、
わたしは、思っている以上に、ちゃんと女の子だ。

違和感を覚えるようになったのは、いつからなんだろう

記憶がないのである。

気がついたら、ひねくれ星人になっていた。

ひねくれ星人だからか、自分の幼少期を否定したくなってしまう。
生理になった時、本当は大人になれた証だ、と思ってちょっと嬉しかったの、ちゃんと覚えている。

だってやっとこれでみんなと一緒になれたんだから!

高校生まで、本当に、みんなと一緒になることに必死だった。
結局うまく擬態できないので、省かれていたけれど


昔はその社会しか知らないからさ、その社会で行われていることが正義であって。
それ以外に選ぶなんて思考、そもそもがなくて。
そして、その当然のことができなかったとき、この社会には存在することができない、と失望すしてしまうから、失望する直前に「悔しい」という気持ちでなんとか踏みとどまるのかもしれない。

けど大学に入ってから現在に至るまで、選択肢がありすぎるんだ。
選択肢がありすぎて、けれどもどこから手をつければいいのかは誰も教えてくれない。大人でしょ。自分でやらなきゃって。
だから迷うんだ。
永遠と広がる道の上で何をしたらいいか、どう選択すればいいか、今まで人に合わせることに精一杯だったのだからわかるはずがない。仕方ない。
自分のせいである。

愛情も同じ
家庭はちゃんと愛情をもらって育ったはずだ。少なくとも虐待やネグレクトなんてものはない。親はやや過保護ではあったが、ずっと続けたいと思ったダンスは続けさせてくれた。(くれている。)

愛情深い人っていうのは、どの段階を経て愛情を与える人間になるのだろう
自分はもらうことに慣れすぎているのだろう。

セーラームーンやプリキュアは、可愛い女の子が戦う、楽しいアニメなだけじゃない。
愛・協調性・友情・無垢・自己犠牲・献身をまとって、画面上にやってくる。
むせかえるほどのピンクの世界。

そんなピンクの世界に自分は嫌気がさしている。
どうして?

わたしのことを知らない誰かが、知らないところで女性像を当てはめる。
わたしの体がバラバラになって、全く違った素材のもので形成されて、知らないモノになって動き出すのは、非常に気味が悪かろう。

けど、きっとそれだけじゃない。

だって憧れちゃうんだもん、セーラームーンに、プリキュアに
だから、ピンクが女性的であって嫌い、とは言い切れないんだよな、きっと。

愛・友情・無垢とか、そういうものを押し付けられると同時に、そんな大きなものを受け止めて、人に与えるなんて大層なことが、自分になんかできないんじゃないか、と思っているんだ。

結局臆病なんです。

結局、自分勝手なんです。

人のために調べてるわけじゃない。
人のために書いてるわけじゃない。
結局、全部自分のためなんです。

どうやって自分という輪郭を認識すればいいのだろうか。
自分の肌触っても、温もりを実感することは難しい。
生きていても、一人では生きていることが実感できないのである。

もしかしたら、死んだら、いることがなくなって、やっと、いたことに気がつくのかもしれない。

私の輪郭は
何で形成されるのか。

周囲からの抑圧に負けたくない意固地な私と
周囲がいないと自分を保てない弱い私がいる

考えることで思考が止まってしまう私は
思考することを一回手放さなければならないのかも知れない。

バカになって踊れよ

そうしたら、なんだか気楽になってくれるんじゃないだろうか。

※※※※

美少女戦士になりたいと思って、はや20年が経過した。
わたしの肩にはまだ妖精は乗ってくれない。


※※※※

臆病者の逃げたがり
それでもお前は踊らなきゃいけねえ
てめえの生存価値は所詮そんなもんだ
意味合いなんて求めんな
誰かさんが見出せるまで、おどるしかねえのよ。





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