『ひょん no 気』vol.6 気づきの使者
娘の保育園で新卒できた先生に話しかけてもらう。
おばさんは、これだけでまあまあテンションが上がるもんだ。
『お母さん、お話上手ですね。どうしたらそんなふうに上手くお話しできるようになりますか?』
え?お話上手とな??
そんなふうに感じてもらっていることにとても驚いた。
仕事という仕事は、接客業しかしてこなかったし、
現在では星読みやアートセラピーをしてるもんだから、常に喋ってはいるものの
こんなにもどストレートに褒めてもらうことに驚いてしまった。
まして好きでしていることとなると、褒められた瞬間にフリーズしてしまう。
確かに、年齢や性別を問わずいろんな方と話はしてきた。
でもそんな機会はどんな人にも平等に与えられてもいると思う。
そこに努力や根性論のようなものもない。
ならばどこがどう違うのだろう。
改めてこんなふうに自分を感じて、自分に問いを立てる機会もそうそうない。
すばらしく有意義な時間を彼女からもらった。
人は人と交わることででしか自分に問いを立てることができないのではないだろうか。
もちろん、自然界やその他、この目や耳や手や皮膚、思考を通してさまざまに感じ思いを巡らすことからも問いを立てるのだろうが…
そこにも必ず『人』は関わっているのではないだろうか。
そんなことを思った。
世代を超えることはこの上なく幸せをはこぶ。
押し付けや、凝り固まった理論を押し付けたいとは全く思わないし
まして、私にはそんなもの持ち合わせてはいない。
ならば何を持って彼女と話そうか…
ただ視線を合わせ、心を開き、会話するのみ。
私にもあったかつての若かりし自分。
全くもってちがうのだけれど、確かに私にもあったその時期を
今生きる彼女に、今の私が放てる言葉があるなら…
『背伸びしなくていい、今できる最大限を放てばいい。』
『そのままのあなたでいい。今しか表現することの出来ない言葉がたくさんある。』
『悔しくっていい。それは原動力になるから。』
『無力だと悲しんでいい。その思いが誰かを救う優しさになるから。』
全ての経験は、どこかで必ず自分を救う。
全ての経験は、どこかで必ず自然な形で手を差し伸べれれる自分を手助けする。
あなたに送っているようで、おそらく数日後、数年後の私に向けて言っているのだろう。
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