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『ひょん no 気』vol.5 癒しは…一歩踏み込み過ぎれば…

『癒し』を必要とする人は増えているのか…
子供にも癒しが必要という言葉がちらつくということは現代、
この癒しを欲している状況はかなりやばいんじゃないかとも思う。

自分自身、星よみやアートセラピーなるものを生業にしているわけだから
他者を『癒し』たいのだろうと思われがちだ。

いつ誰がそんなことを言った。

ということに出くわす。

私、渡邊梓がやりたいことは『癒す』にあらず。です。

私がやりたいことは、一歩踏み込みたい、踏み出したい、いっちょ自分の人生後悔なく終えたい!という人を全力で伴走すること。
その伴走の中に『癒し』がありのかはわからないが、私自身はそんな気はさらさらない。

あるとしたら…
『癒し』=道草やコーヒーブレイクや、ボケーっとする時間もOKさ!
という部分だろうか。

でもその先が重要だと考えている。

踏み込み過ぎれば『いやし』は『いやしい』になる。

匂いはしないか。この部分。

そう。

誰しも相手の神域に土足で入り込んではいけない。
扉が開いていたとしてもだ。

それは、ただただ傷を深くし、解決しうる癒しが充満するはずであった部分をどこか汚してスッキリしないものにしてしまう。

神域を整え、次への活力を、英気を持っていざ!と踏み込む力は誰しもにあるのだ。
それがどうも滞ってしまう時があるから他者との交流が生まれる。

やってやろうとか、アナタのやり方は間違っているだなんて言えるような立場の人間なんて嫌しない。

誰しもが、己の神域の管理者であり、主であり、神域の中心に鎮座する神なのだということ。

言葉にしてこうして自分自身の認識に輪郭をつけることで
私はまたクライアントの方の神域を共に整えることに背筋を伸ばす。


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