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四十九日(テキスト部分)


2023/09/26

お通夜の式場に入った時に、親戚の方が
「おばあちゃんの顔を見てみる?」
と聞いてくれました。
その人について行って、私は亡くなった祖母の顔を見ました。
死に化粧をしている祖母の顔は、祖母ではないみたいでした。

それから、その場で、親戚の方々と世間話をしました。
勤め先や、学校についての話。
会うのが久しぶりなので、そういう話になりました。
その場所には死体があるのに。
仕事とか会社とか、生きている人にとっては大事だけど、
死を前にすればもうそんなのどうだってよくなるような、
そんな世間話をしました。

世間話をせずに
「おばあちゃん!私だよ!」
と、すがりつくことが本当のような気もしました。
でも恥ずかしかったのか、私はみんなに合わせて世間話をしました。
なんだか、おばあちゃんの存在をみんなで無視しているみたいでした。
おばあちゃんを、モノとして認識しているみたいでした。



そして、お葬式が始まりました。
私は、お葬式の時、粗ばっかり探してしまいます。
大事な人のお葬式であればあるほど、そうなります。
スタッフの人がバタバタしてるけど新人さんなのかな、とか。
お坊さん寝癖ついてるな、寝起きなのかな、とか。
皆さんちゃんと仕事をしているのに、そうやって難癖をつけてはいけないと思います。
でも、これが人生の集大成なのに、これでいいのかなと思ってしまいます。
それで、お坊さんのお経が進むうちに、

あぁ、泣けない。
と思ってしまって。

子供の頃から何度も何度も、祖母が亡くなった後のことを考えては泣いてました。
そして今ついに、これが現実、なのに、
全然泣けなくて。
韓国だと葬式で泣く人が多ければ多いほど、いいということになるんですよね。
でもなんとなく泣けなくて。
だって住職さん髪ボサボサだし。スタッフの人もたついているし。
どうしてこんなことばっか考えちゃうんだろう。
などと思って、昔祖母からもらった数珠を握りしめて、もじもじしているうちに、
最後のお別れが始まります。
1人ずつ棺を覗き込んで、お花などをお供えして、別れの言葉をかけます。
泣くならここがラストチャンスだ
とかまた嫌なことを思いました。

で、お棺にお花入れて、
「ありがとう」
って、お棺の中のおばあちゃんに言いました。
喉の奥から絞り出たような、カエルが潰れたような声が出ました。
声というより、音でした。
その瞬間、どっと涙が出てきました。
あ、泣けた。って。まあ、泣けたとかどうだっていいんですけど。
「ありがとう」って言葉にした瞬間
私の中で、おばあちゃんが、モノから人に戻ったんです。
不思議なもので、私が泣き始めると、周りの人たちも泣き始めました。



最期、お棺が閉まる前に、祖母の髪を撫でて
「またね」
って言いました。
私は子供の頃から、祖母の家から帰る時は毎回握手して
「またね」
って言ってきました。
また次も会えるように。次に会う時までに祖母が死んでしまわないように。

で、最期も癖で「またね」って習慣で言いました。
その時、実は結構怖かった。
私は
「人はいつか死ぬ」
みたいなことをしょっちゅう言ってるし、作品にもしてきたわけですが、
でもやはり、若者ってどこか、
自分だけは死なないんじゃないかと思ってる節があると思います。
実感としての「死」がまだないんです。
どこか他人事というか。
でも、
「またね」
って言った瞬間、
ああ、自分もいつか死ぬんだ、って確定した感じがして、怖かった。
だって、亡くなった人に、また会うって約束したんですから。


その後、火葬場でお骨を焼きました。
お骨を見た瞬間泣いている親族の方もいらっしゃいました。
私は逆に、骨を見ても、涙は出てきませんでした。
私にとってお骨はきっとモノだったんだと思います。
九十二年間、一人の女性の身体を支えてきたモノへの敬意を感じました。
ああ、立派だな、って。
火葬場の人も、
お年を召した女性でここまでしっかり残っているのは珍しいです。立派なお骨です。
と言ってました。
おばあちゃん骨を丈夫にするために、食事とか気をつけてたから
こんなに立派なんだね、すごいって思いました。



自分の思考を整理するために、
車に乗ってひとりごとを言っていたのですが
これが成果展の作品になるかもって思えてきて、
そんな自分の思考がすごく嫌になりました。

今日、お葬式の祭壇とか、火葬場の控室のご遺体を置くスペースを見てきました。
それを見ていたら、アートがこれに敵いっこないなと、そう思いました。
あれらに比べたら、アートなんて、どうでもいいなと、そう思ってしまいました。
敵うわけないじゃないですか。
本物の葬儀場と火葬場に。
本当の死の前には、アートなんて、まがいものです。



祖母の家の前まで来ました。
今日は鍵を持っていないし、中に入れないので、帰ります。


この辺りは昔住んでいました。
けれど、やっぱり変わっています。
小学校は塗り直されているし、ウサギ小屋は無くなっているし、
保育園は建て直したし、
前に住んでた家はもう別の住人がいるし、
田んぼもどんどん埋め立てられて、
新しい住宅地になってきています。
変わっていないように見える家々は、
逆にどんどんボロボロになっていますね。
私が子供の頃築二〇年だったとすれば
今は築四、五〇年になってる訳なので、当たり前といえば当たり前なんですけどね。


最近、うちの両親が、私が子供だった頃の祖父母に似てきたなと感じています。
健康に気を遣い始めているし、ごはんをいっぱい食べさせてくれるし、優しい。
仕事を辞めて余裕が出てきたんでしょうか。
生まれ持った性質というよりは
出会った環境が性格とか相性を決めることもあるのかもしれないと思いました。


孫というポジションは、美味しいとこ取りだな、と思います。
私はたまにお菓子とか持っていって、お茶入れて、
おばあちゃん美味しいねえとか言いながらそれ食べて、可愛がってもらえて
特に介護などはできていませんでした。
そういったことは、私の両親がしてくれていました。
たまにちょっと行って可愛がってもらえる孫ってずるいですよね。
毎日は行けないけど、たまに行ける喫茶店みたいな感じ。
そんな感じで、少しでも私や弟の存在によって
生活が豊かになっていればいいなと思います。


大切な人が亡くなると、基本的に、「許してほしい」という気持ちになります。
子供の頃から、祖母がいつか亡くなるということを何度も何度も考えてきて
悔いのないように一回一回会ってきたはずですけど
それでも、やっぱり
最期の瞬間会えなかったとか
身体がよくなったらもっと色んな場所に一緒に行きたかったとか
色々と思うことはあります。


母に、祖母が亡くなる少し前のことを聞きました。
昏睡状態に入る前に、すごく痛がって、私の母の方をみて、
私の母を自分の母だと勘違いして
「お母ちゃん、寝らいて、寝らいて」
「どうぞ、安らかに、安らかに」
と言っていたそうです。
聞かなきゃよかったと思った。
あんなに優しい、素敵な人が、どうしてそんなに
最後まで苦しい思いをしないといけないのかと思った。
往生して、何も苦しまず、眠るように亡くなってほしいと思ってた。
今は本当に、祖父と、極楽浄土で、幸せになっていてほしいと思いますね。
祖父や、私が知らない、祖母の若い頃の知人とか。
心から思います。
そうでないと浮かばれないから。
祖母もそうだし、何よりも私がしんどいから。
極楽浄土ってやっぱり、生きている人のためのものだと思います。
生きてる側のエゴです。
父は、祖母の亡くなった直後の顔が
「笑顔で眠っているようだった」
と言っていました。
昔親しかった人たちが、お迎えに来てくれたんでしょうか。
極楽浄土に導かれたんでしょうか。
そうだといいなと思います。そうであることを心から祈っています。


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