私を取り巻く事象と、社会における「若い女」。及びそれをルーツとしている私の接客観

最近はずっと卒論が頭の容量の8割くらいを占めている。正直note書くより卒論に集中した方がいいのだが、思ったことや感じたことはそのときにしか書けないものなので、気分転換もかねて。

残りの頭の容量のうち、1割をアカデミックハラスメントの手続きに、残りの1割で日常をサバイブしている。

面談、手続き、手続き、事実確認、メール返信、手続き。まじで自分は一つも悪くないのに、自分は一つも悪くないと主張するためには、時間も、労力も、気力も、使わなければならない不条理さ。
「教員」という立場を使って、学生との距離を詰めようとした人間への侮蔑。
いくら社会的地位のある立場にあっても、学問を教える立場にあっても、結局動物なんじゃん、笑、みたいな。
そして失望。やっぱり若い女だからな、みたいな。

子ども時代の終わりっていつだと思いますか。そんなの、人によるでしょう。私の子ども時代は、小学校あがってすぐの両親の別居で半分終わり、中学三年生のときに、七つの冬から孫のように可愛がってもらっていた書道教室の先生に胸を揉まれて完全に終わりました。
ああ。私はもう若い女なのだ。と認識せざるを得なかった。これから私は老いるまで、大体の男性から性欲をぶつける対象として見られて、実際、無遠慮にぶつけられていく。性欲をぶつけてくる男性という生き物は、私を殴っていうことをきかせるちからを持っている。そういう社会の中で、生きていかなければならない。
自分の欲望を満たすために人の領域を侵すことを厭わない人の、なんと多いことか。ていうかそもそも女なんて、人だと思われていない。そういう人にとって、という枕詞はつくけれども、「女」は、理性をはたらかせて尊重するに足らない存在なんだなと思う。自分の社会での立ち位置を自覚してから、嫌な思いをしないために、私は男性心理についてかなり勉強をした。

少し話すとなんとなくわかる。この人は私のことを穴として見ている。わんちゃんやれるかな?性欲が眼球に滲んでいる。この人は私をか弱い生き物であって欲しいと願っている。この人は私にものを知らない馬鹿前提で接してくる。この人は…。
無遠慮な欲望が向けられるたび、アンテナはどんどん発達する。
電車に乗るとき、痴漢を警戒しない日は無い。喫茶店でひとり過ごすとき、他の客の視線に気を配る。駅のトイレではカメラを探す。ナンパが近づいてきたのを感じたら動線を変える。ショッピングモールでつけまわされて、エスカレーターを駆け上る。

「若い女」らしさが求められることもあるメイドという仕事において、求められているものが分かりながらも、どうしても曲げられなくて、合わせにいけない、夢を見せてあげられない自分がいる。立てられたフラグは全部折っている。芯を曲げられない自分のことを誇りに思う自分がいる。そういう点では、私はメイドに向いていないのだろうなあ。すみません。そういうことで、私は思わせぶりなことは言えないし、さりげなくボディタッチするとかも、できません。言ってほしい言葉はわかるけど、思ってなかったら、言えません。

あなたが私をひとりの人間として扱ってくれている限り、私も真摯にあなたに向き合います。

どうか、どうか。



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