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天海春香学会Vol.2サンプル「天海春香の運命論」

掲載:天海春香学会Vol.2
(販売ページはこちら
著者:そにっぴー
※noteに投稿するにあたり、一部学会誌と体裁が異なりますのでご了承ください。



それは初めてアケマス※1の筐体にコインを入れたとき、あるいは初めて箱マス※2や SP※3を起動したときのこと。765 プロダクションの新人プロデューサーとなったあなたの目の前に、リボンが似合うかわいらしい女の子が現れる。やがて女の子にかける言葉の選択肢が現れるのだが、


「キミは誰だい?」


「怪しい奴!警察を呼ぶぞ」

そして、


「運命の出会いを信じてる?」


後にあなたは、この女の子こそ天海春香※4その人なのだと知ることになる。

※1 アーケード版アイドルマスターの略称。
※2 注 1 のアケマスを Xbox に移植したコンシューマー版のこと。
※3 PSP 版「アイドルマスターSP」の略称。「パーフェクトサン」「ミッシングムーン」
「ワンダリングスター」の 3 種類が展開された。
※4 SP の場合、春香と件の選択肢が現れるのは「パーフェクトサン」のみ。春香が不在の他ソフトでは、登場するアイドルと選択肢も異なる。



序章 「運命の出会いを信じてる?」

先のセリフ「運命の出会いを信じてる?」は、春香を象徴するものの一つとして認知されている。これは筆者の主観ではない。後年に発売されたステラステージ(以下ステラ)でも重要な場面で当該セリフが再登場※5し、公式からも重要な意味を持つものとして扱われていることがわかる。

セリフとしてはありふれたものだろう。それではなぜ、このセリフはここまで重要視されるようになったのだろうか。これが本論考の主題である。
前半では、「運命」という言葉について考察する。そのために、現在進行形で運命について論じている哲学者、入不二基義氏(以下「入不二」)の思想を紹介する。大幅に簡略化した紹介になってしまうことを先にお詫びさせていただくが、興味をもっていただけたら幸いである。

後半では、「プレイヤーと天海春香にとっての運命」とは何だったのかを考察する。

入不二の思想から、いわゆる無印※6春香のエンディングを見つめなおすことで本論考の主題に切り込んでゆく。

※5 「ランク S やりたいこと」を参照のこと。
※6 アケマス、箱マス、SP を総称してこのように呼ぶ。



1 章 運命とは何か

入不二は 1958 年生まれの哲学者であり、主著 『あるようにあり、なるようになる』※7の中で独自の運命論を展開した。端的に言えば入不二は「現実とはまさしく運命的である」と主張しているのだが、入不二がここで使っている「運命」という言葉は従来の解釈と異なるかもしれない。まずは「運命」の解釈の仕方を確認しよう。

同じく哲学者である森岡正博と入不二の対談を記した書籍『運命論を哲学する』※8の中では、入不二は 3 つの運命論を紹介している。

   1:決定論  
   2:解釈(物語)的運命論 
   3:論理的運命論

1 の決定論については、「すべてのことはあらかじ め決定されている、あるいは起こることは必然的に起こっている(中略)偶然に見えることも実は必然である」※9と表現できる。たとえば、全てのできごとは神によってシナリオを書くがごとく決められている、という考えは神学的決定論と言える。神という宗教的な要素を排して、自然科
学的に考えてもよい。原因に対して結果があるのだから、それが無限に連鎖して全てのことはあらかじめ決まっている※10、と考えればそれは因果的決定論と言える。

2 の解釈(物語)的運命論は、恋人たちが「運命の出会い」を語るときのそれに似ている。「最初は偶然だったことが、もうこれは必然と考えることしかできないような、いわば重み」※11をもつ感覚、と言えよう。偶然にすぎない出来事に「解釈(物語)」を与えることで、「嗚呼、あの出来事は偶然などではなく必然だったのだ!」と叫ぶに足る意味を持つようなものだ。

さて、1 と 2 の運命論には共通点がある。それは「ある出来事αと、今の現実βが結びついていること」だ。すなわち、1 の決定論では「神の意思αが、現実βを決めている」と言え、2 の解釈(物語)的運命論では「かつての些細な出来事αが、この幸せな現実βのきっかけである」と言える。この共通点を入不二は「二項性」あるいは「複項性」と呼んでいる。

しかし、入不二の提唱する運命論はこのような「二項性」や「複項性」を持たない。それこそが※ 3 に挙げた「論理的運命論」であり、入不二が「現実とは運命的である」と主張する際に用いる運命論だ。従ってこれから先に「運命」や「運命論」と書く場合、断りが無い限りは「論理的運命論」を指すことにする。

7 入不二基義.(2015).あるようにあり、なるようになる 運命論の運命.講談社
8 入不二基義・森岡正博.(2019).現代哲学ラボ・シリーズ第 1 巻 運命論を哲学する.明石書店
9 同書.p.70
10 同書では数学者ラプラスが提唱した「ラプラスの悪魔」を例として挙げている。これは「全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、データ解析の能力があるような知性が存在すれば、未来は見通せる」(同書.p.75)という想定上の悪魔である。
11 同書.p.88

入不二が言う運命論の大事な性質は「ただそれだけでそう決まっている」※12というところにある。漠然としているので、順を追ってこの性質にたどり着こう。

まず、どんな出来事も「起こる」か「起こらない」かの 2 択である。起こる可能性もあるし、起こらない可能性もある。ここでは「起こる」「起こらない」の 2 者は可能性において平等だ。このことを、出来事を“〇”として以下のように図式化する。


[ 〇 〇 ]※13


しかし、現実はどちらか 1 つしかない。たとえばその出来事が「起きた」としよう。これを「起こる可能性も起こらない可能性もあったけど、起きた(“◎”とする)」という形で図式化すると、今度は次のようになる。

[ 〇 ◎ ]※14



ここでは、2 つの可能性の中から 1 つが選ばれて現実が成り立っているように見える。ここから入不二の独自性があらわになる。現実を「その出来事が起こらなかった『ことにする』」のは、絶対に不可能だ。この時点で「起こる」と「起こらない」は、もはや平等ではない。「起きた」この現実こそが全てなのだから。このことを図式化すると、次のようになる。


◌ ◎ ※15


もはやここでは、ある出来事が「起こらなかった」という可能性を考慮していない。よってこの図に二者択一のニュアンスは不要であり、括弧を書かないことでそれを表現している。「起こったか?起こらなかったか?」は重要ではなく、「どちらでもいいのだが、現にそうなっていることが全てである」のだ。先ほど、決定論や解釈(物語)的運命論には二項性や複項性があると述べたが、それとは異なるこの運命論には「単項性」があると言えば、差異が浮き彫りになるだろう。

まとめると、現実とは「いくつかの可能性から何かが選ばれる」という性質のものではなく、「何であれ、それが全てでそれしかないし、ただひたすらにそうである」※16というものなのだ。なお、入不二はこれを指して「ベタな現実」※17と呼んでいる。

さて、ここまで入不二にとっての現実、そして運命論について説明してきた。これらを理解していただけると、入不二の著作のタイトル『あるようにあり、なるようになる』の意味の説明に進むことができる。『運命論の哲学』の中で入不二の思想を解説する森岡曰く「これこそが『現実』というもの、そして『運命』というものを正しく表現した文章」※18である。これは本論考のキーワードであるので、森岡の解説を基にして次に解説する。

「現実」には 2 つの側面がある。1 つは「相対現実」と呼ばれ、これは「何が起こったのか?」という言わば「現実の中身」だ。例として言えば「オーディションの勝者は天海春香だった」というもので、先に上げた図でいうところの、

[ 〇 ◎ ]※19

の状態である。もう 1 つは「絶対現実」と呼ばれ、これは「(何が起こったかはさておき)現実はこのようでしかない」という言わば「現実の構造」だ。先の例で言えば「(誰が、かはさておき)オーディションの勝者はこのよう(天海春香)でしかない」というもので、図でいうところの、

“ ◌ ◎ ”※20

の状態である。この「相対現実」と「絶対現実」は、どちらかがより正しい、といったものではない。たとえば、私たちは次のような段階を踏んで現実を認識する。

Ⅰ:「オーディションの勝者は、まさに、このようでしかないのだ……」といったように、「絶対現実」がハッキリと現れる。

Ⅱ:しかし、「中身」の無い現実を把握することなどあり得ない。「オーディションの勝者は(他のアイドルだったかもしれないが実際は)天海春香だった」という「相対現実」が眼前に立ちはだかる。

Ⅲ:それでも「勝者は天海春香だ」ということが「現実」であるからには、その「『現実』に、具体的な何ものをも寄せ付けない絶対性が刻印」※21されている……

このように「相対現実」と「絶対現実」との間にはいわば無限運動が発生している。ここでⅡの相対現実を、現実の中身が伴うことから「このようなものがある」と表現する。また、Ⅰ・Ⅲの絶対現実を、中身が何であっても現実の構造として現れることから「あるものがある」と表現する。そして、「このようなものがある」と「あるものがある」の無限運動の真っただ中にきらめく真理を「あるようにある」と言うことができる。また、現実がこのようで「ある」といった話をここまでしてきたが、ここで「時間」のことも考えてみよう。先ほどから用いているオーディションの例を挙げると、オーディションが始まる「前」までは、天海春香は負ける可能性もあったし、勝つ可能性もあった。しかしオーディションが終わった「後」は、「勝つ」という結果が現実に「なった」。

すなわち、「時間が経過することによって、未来にあったであろう様々な可能性のうち、たったひとつがいま実現」することが「なる」という動詞の性質である。

この「なる」にも相対的側面(このようなものになる)と絶対的側面(なるものがなる)があり、その無限運動は「なるようになる」と表現できる。

上の 2 つの段落をまとめると、「あるようにあり、なるようになる」という表現に到達するのだ。

それでは、「あるようにあり、なるようになる」という入不二の運命論からは、「運命の出会いを信じてる?」というセリフをどのように解釈できるのだろうか。

12 同書.p.76
13 同書.p.92 の図より、改変有り
14 同上、改変有り
15 同上、改変有り
16 同書.p.98
17 可能性を表す「○」をいくつ並べても、それが「現実はただこうなっている」という事実にベタ塗りされて「■■■■■」となってしまうことを指す。
18 同書.p.46
19 同書.p.92
20 同上
21 同書.p.36



2 章 天海春香とプレイヤーにとっての運命とは何か


まず確認しなくてはならないのは、「運命の出会いを信じてる?」という選択肢そのものは天海春香と特に関係ないという点だ。冒頭に書いた通り、初回ゲームプレイ時の強制イベントとして春香に話しかけるのだから、このシーンを春香のコミュの 1 つと呼ぶことは難しい。

ここで焦点を当てるのは、このセリフを春香の無印のストーリー全体と照らし合わせたときに我々が抱く思いだ。ここで詳細に語るまでもないが、無印春香のストーリーで特筆すべき点は「トゥルーエンドであっても、春香からプロデューサーへの『もっと近いところに、置いてほしい』という思いが叶わない」というところにある。なお、ここでトゥルーエンドとはアケマスにおけるランク B,A,S 時のドームコンサート成功(かつボルテージが一定以上のときの)エンディング※22を指す。

さて、私は今、「トゥルーエンド」という言葉を使った。“True end”、すなわち「正しいエンディング」だ。このエンディングを「正しい」と呼ぶことには賛否があるかもしれないが、「正しい」と考えることを肯定する根拠を挙げることはできる。

アイドルマスターというゲームのプレイ目標を端的に表せば「さまざまなレッスンやコミュニケーションを経てともにトップ・アイドルをめざす」※23ことにある。たしかにアイドルランクやお別れコンサートの会場規模、そのコンサートの結果によって分岐するエンディングを全て等しく価値あるものとすることはできる。しかし、より高いアイドルランクで、より大きな会場で、より良い成果を上げた先にあるエンディングはアイマスのプレイ目標に適ったものであり、その最たるものを「トゥルーエンド」と呼ぶことはできるだろう。

なぜ私がここまでトゥルーエンドの定義にこだわるのか。それを示すために、まず次の 3 点を確認してほしい。

イ:無印のアイマスはマルチエンディングである
ロ:その中でもトゥルーエンドと呼ぶに値するエンディングが存在する
ハ:春香のトゥルーエンドでは春香の願いのひとつが叶わない

イについて、春香 1 人をとっても複数のエンディング、すなわち「可能性」が存在する。これはゲームのプログラム的にそうなっているという話に限らない。プログラムの内容を知る由もないプレイヤー目線からしても「自分と春香がどのようなエンディングを迎えるのか」ということについて無数に想像することができる。

ロについて、仮にプレイヤーが全てのエンディングをその目で見たとしよう。それらの中でも、アイマスのプレイ目標からしてトゥルーエンドと呼ぶに値するエンディングがただ 1 つだけ存在する。

ハについては、ロにおけるただ 1 つのエンディングが「このようでしかない」という事実そのものである。

イ・ロ・ハを繋げて表現を変えよう。春香のエンディングの可能性は無数に想像できるのに、トゥルーエンドに選ばれたのは「春香の願いが叶わない」というものであり、ここにおいて他のエンディング(プログラム上存在するにしろ、プレイヤーの想像の産物にしろ)はトゥルーではない。『春香のトゥルーエンドは、このようでしかない』。

ここで前章にて紹介した入不二の運命論を絡めてみる。
春香のエンディングに、a、b、c、…T とそれぞれ名づけたとする(“T”がここで言うトゥルーエンド)。ゲームプレイ前は、春香がどのエンディングを迎える可能性もあり、そのことは下記のように図式化できる。

[ a b c … T ]

しかし、プレイしてみればトゥルーエンドと呼ぶに値するエンディングは“T”のみである。

[ a b c … Ⓣ ]

アイマスのプレイ目標からして“T”よりも「さらにトゥルー」なエンディングは無いため、「何であれ、T が全てでそれしかないし、ただひたすらにそうである」という「運命」が現前する。これを入不二の言う「ベタな現実」として表現する。

[ a b c … Ⓣ ]

この「ベタ」を、敢えて相対現実(現実の中身)を可視化して表すと、このようになるのではないか。

[ 春香の願いは叶わない ]

アイマスの春香ストーリーをプレイしていくうちに、プレイヤーは春香をどんどん好きになっていく。そしてゲーム内のプロデューサーに感情移入していれば、トゥルーエンドにたどり着いた暁に、春香とプロデューサーはこれまで以上の関係で結ばれることを期待および予想する人もいることだろう。しかしそうはならなかった。

トゥルーエンドにおいて春香とプロデューサーは結ばれない。「それが全てでそれしかないし、ただひたすらにこうである」。これこそが、天海春香とプレイヤーに圧倒的な存在感を以て立ちはだかる絶対現実、すなわち、「運命」なのだ。

「運命の出会いを信じてる?」というセリフそのものに深い意味はないかもしれない。しかし、「春香の運命はこうでしかない」「私(プレイヤー)にとっての春香の運命はこうでしかない」という性質を持つトゥルーエンドが、春香の願いが叶わないものであったために、このセリフに対してある種「やりきれなさ」が生まれる。トゥルーエンドに対して肯定しようが否定しようが、このやりきれなさから完全に逃れられなかった人が多く存在するのだろう。これこそが、「運命の出会いを信じてる?」がここまで重要視される理由なのかもしれない。

22 ハードによって出現条件は異なる。
23(2011).リスアニ! 2011 Jun. Vol.5.1.ソニー・マガジンズ.p.6



終章 運命の出会いを信じている

現実の運命性、そこにある絶対現実の圧倒的存在感……これらは春香のトゥルーエンドのやりきれなさ、物悲しさをより強めるものなのかもしれない。

しかし入不二はこうも言っている。「運命は、大波に乗るように『乗る』ものであって、思い通りに使いこなすものでもなければ、黙々とただ従うものでもない」※24。

公式があのようなトゥルーエンドを設定したという「大波」は、ある種の妥当性を持つ。アイドルとプロデューサーという関係性、あるいは春香の 16 歳という年齢を考えると、この「大波」は十分な正しさを持つし、「だからあのエンディングでよかったのだ」と思うことに何の問題も無い。

しかし、この「大波」に飲まれたくないと思ったプレイヤーよ、あなたはその「やりきれなさ」から目を背ける必要はない。あなたなら、あの場でどのような言葉を春香にかけるか?もし春香がプロデューサーの近くにいられることになったら、どのように春香を幸せにするか?

春香がいつかアイドルを辞めて、「この話の続き」※25をするとしたら、あなたは何を話すのか?

アイマスは、“あなた”とアイドルが唯一無二の関係性を築くゲームである。
あなたと春香は、出会わずに今に至るかもしれないし、出会っていたかもしれない。しかし「あなたと春香は出会った」ことについては「そのようでしかない」。これこそが、あなたと春香が出会ったことの運命性だ。

これからもそれぞれの春香 P が、それぞれのやり方で「運命の出会い」を信じ、その思いを発信し続けてほしいと心から願う。

※24入不二基義.(2015).あるようにあり、なるようになる 運命論の運命.講談社.p.320
※25 トゥルーエンドにて「私のこと、今より、もっと近いところに、置いてほしい」という願いを受け入れてもらえなかった春香の「いつか、アイドルを辞めたら、戻ってきても、いいですか?」に対して、プロデューサーは「ああ、その時は、この話の続きをしよう。もし、気持ちが変わっていなければ」と返す。



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