–コロナについてちゃんと想ってみる
安倍さんお達しの2週間の喪に服したような後にこそ(喪があけたから?)
状況が本質化しているように見える今
わたしの周りには
ついに明日生きることにも不安を覚える状況が訪れている人 と
いつもとさほど変わらない人
むしろ忙しくて倒れそうになっている人 がいて
きっとそれはまず単純に
今なんの仕事に就いているか の違いが大きく影響しているように見える
それだけじゃないけど。
つまり今回のことで世界全体が止まったり
世界全体が自粛体制になれる訳はなく
どこかが止まっているように見える分
どこかはてんてこ舞いになっている
同じ状況下で、下手したら
家のお隣さんは世界の忙しさに我を忘れ、
その向こうのお隣さんは混沌と滞っている世界に絶望している
そしてお金の流れもそこにじゅんずる
つまり世界はひとつで、
だから今回のようにちゃんと世界のどこかがちゃんとむしろ激しく動いているのなら
ちゃんとわたしの世界も循環しているから大丈夫なのだと思った
大きなもしくは小さな循環の流れをイメージすればいいのだと思った
社会情勢や環境が変わると
いま何をしているか(do)に影響が出てそれをすることができなくなることもあるが
どんなに社会や環境が変わろうとも
なんでわたしとして(be)それ(do)をしたいと思ったのか
わたしはこの世界でどう在りたいか(be)
(be)は変わらないはず
そこに(beに)立ち返ると自ずと循環の流れがある方に興味も関心も向くし、そうなれば気づけばもうその流れの中 なのだろうと思う
深く考え過ぎるわたしのような性質の人は きっと深く考えず
暮らしに直結すること から視点を飛ばしそこに従事してみたらいいのだと思う
ハレの日のこと
ではなく
いつもの、自分や家族や周りの自然などのイノチが在るだけで
循環が起こる暮らしのこと
そういう視点の
自分の周りの小さな暮らしは
絶対的に地球・宇宙全体の流れに繋がっている と思う
そうしてそういう
毎日の日常の
1つ1つの
小さなたくさんの
行為が所作がその繰り返しが
祈りのようで在りたい と思う
って今温泉の銭湯に浸かりながら
わたしは今塩素問題に無縁のようだけどそれは今だけの話
じゃあ温泉ありきで水の問題にはどういう循環をおこせるのか
という空想からコロナな世の中についての考察に至りました
朝風呂中は素直に思考が溢れ出る
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