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2己3巴、ヨーガムドラー、はあ?




 仙骨、胸骨、後頭骨の共振関係を体感操作することは重要だ。息氣への触知と操作も重要であるが、骨格という根本レイヤーにおける上述の現象と作為に慣れ親しんでいなければ、如何に複雑な体型を言語や肉体によって仕入れたとしても、目的は達成されず見失われてしまうように思う。状態も根源的には改善しなければ上昇しない。

 以前から思っていたが、身体は横隔膜あたりから上下に8の字を描くような共振関係を多重に構成しており(結果的に別のレイヤーではまたは別の出来事として左右に8の字を描くそれも発生しているように思う)、中心中枢中空から同位置同距離同位相にある(特に)骨格コンポーネントは、似たような形をしておりかつ、そのセクションの中で抽象される役割が似ていたり、また繰り返し、共振関係にあり、例えば熱くなる時さえも重なってくる。(であれば負として硬さについても同様だろう。)

 常々、人間(脊椎動物である尾索動物)なんて入れ子の音叉レベルの楽器でしかなく、実際上の扱いもお琴のようにしている節があるのだが(日々気々のメリハリのある生き活きた楽器、音叉、お琴)、文旨を切ってここで言うが私はそのような生の音響が好きだと思う。楽譜や視線の中で音程を合わせに行くような音楽的作為ではなく、内部で愉しまれた音が外側に降って来るような音楽、生の音響が、とても好きだと思う。これは主にボクシングのことだ。

 身体に潜み散りばめられている数多の共振関係と生の音響、これらを保ち伸びやかにしていくのは、多分とても難しい。楽譜と審査と雑音に防音装置が溢れ性能も優れ過ぎていて、人々は自分から弾け溢れ出る音の豊かに気が付かず、そのような可能性に触れもせず、触れないからこそ硬直していくばかりのプロセスを辿っていることが多いように思う。硬直した身体を柔らかな座椅子に半固定されながらスクリーンと立体音響に晒され続けていることもままある。脚が立っていない、体を立てるという意味で立肢立体になっていないので、歪みの襞に溜まった電氣像を覗き込み囚われる。霊という事象現象は純粋にある。しかし自分の立肢立体で還してやることもできる。真っ直ぐに迸る内部反響が導きとなる。本当は誰しもが分かっているだろう。

 まあ、ひとまず脊椎ないし人間なんて、ストレッチポールみたいな棒状のものに仰向けで寝かせて、仙骨と後頭骨の接地と重みと姿形に位置を感じてもらいながら、電圧電気が胸骨中空を掴み振れさせさえすれば、それなりなる必要に応じて求められた生の音響が出て来る出て来ちゃうんだけどね。脊椎尾索に脊索なんてそんな感嘆だから。

 骨格に潜む根本スペックとしての共振をそれとして突き詰めて行ってぶつかる境地界面は当座のところ、単なる無空(地球の鳴り)と、降り注ぐ重力、鯨の交信であるようにおもう。

 因みに胸骨は仙骨後頭共振の増幅装置、第三共振部。蝶形骨まで揺れたら最高。その先は尾骨に百会。有に無、有から無、はあ?
















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