ただの記号的羅列



出来れば全ての音楽を知りたいと思う。出来るのなら、全てを振動を、触覚的な出来事として生々しく、元々の通りにトータルに捉えて、そこに込められたメッセージに、本当にトータルに応答したい

遺伝や身体のレベルで適応していない物事がどうしても多い。消化吸収できなかったり、適切に反応、というより反応できないことが多い。このような不適応を欠損とするか残存とするかは個人の意志と方向性に依ろう

多くの人の言う物事や言動にリアリティが持てない。意味ではなくマテリアルな無意味を感じてしまう。意味があるとは終わったり遺ったりということであるとして、意味が無いとは終わらないし遺らないということなのだろう

自分の、あくまでも自分としての強度と濃度が上がっていくのを感じる。このプロセスに関しては時に音として聞こえる程。ザーザーサラサラ体液が、液やエレキが昇っていく、昇っていっては降りていき、私は還っていくのを知っている。そして全体、全般的な変質が起きたという感触だけが残されていて新しいが始まっているのを知ってる

瑣末な事実を言えば高熱が続いた後の飢餓状態で、私にとってはマリファナそのものとして作用する合法大麻であるところのCBNを高濃度に摂取した。すると知っていた懐かしい感覚と体感が強化されて戻ってきた

これはいつまでもいつからか私の意識のBGMだったのだろうが、それが主旋律として立ち返り、私の視覚を聴覚に、そして拡張された新しい聴覚を全般的な触覚へと還してくれた。具体的事実として四時間に渡り殆どフルスピードフルスロットルでシャドウボクシング、ダンス、そして強度強固なパントマイムをしていた。最後については実際に図形と触感を出していた、ただその通りそのままに出していたと思う

全てが手触りでしかなかったので何の力みも疲れもなく運動、動き続けていた。普段もそのようにしたりそのようになったりするが程度が違っていた。没入と呼ぶには余りにも強度が低く、その全体性を損なってしまう。あの感覚と、その時から今になってもこれからもずっと続いていく、保存されていくのであろうこの感覚を何と言おうか。感覚というより感覚世界だ

ただの記号的羅列に落とし込むにはさらさらとし過ぎていて捉えどころがない。押し込むには広過ぎて豊か過ぎる。一つ言っておきたいが正直なところ、合法大麻成分等ですらも必要は無かった。私の全般的な感覚の推移と変質という出来事については、私や私の周囲の具体的な物事とは一切の関係がないところで、ただひたすらにそのタイミングと程度が、かなり厳粛に決定されていて、私はこれに抗うことができないし、その発想すらもない

この変異と変質のためであるなら私は一切を犠牲にすると思うし、私はこの私とは少しずれた違うところから、それは絶対に正しく美しい真実なのですと、今の私のいる地平に向かって囁き掛けている

私はわたしのために一切を犠牲にするが、このプロセスはあるレベルで周囲の土壌を回復し森を復旧することに重なるのだと思う。これは理由と神の無い信仰であるだろう。この星の不毛より豊穣に適応した種族はバランスこそを状態としての神、カミないしカミガミとして抱く。不毛であれば砂漠に塔と城を建てその突端に敵い舞い降りる唯一絶対なる人格神を願う。立ち返り森という豊穣に在れば世界樹に神々が踊る。一点としての強さとしては前者であり全般としての広さとしては後者となる。求めや求め方の異なりがあるだけだ

二つに分けたこの議論で私や貴方がどちらに傾いているのかは問題ではなくどちら双方も人間の想念、発想、情念としての art である。何にせよ程よい分量の生命が程よい苦痛と快楽と、その上に醸成される満足と納得を糧にして活動を継続しているのならなんでもいい

一番したいことをはなしてくださいということ

このような事柄、生まれ落ちた地盤とその上に発生する知的ないし情念システムの在り方や関係性、などというものはまだ、ただの記号的羅列に落とし込むことができる。但しやはりあれ、瑣末な入り口的事実としては今回CBN合法麻薬成分に因る依る寄る拠る由ることになったあの感覚と体感を、どのように書き下しておけば、私はあれを常態として整備することができるだろうか

今でもあれからある程度はあれが常態となっている。その分の齟齬と不整合に不適応も引き受けているが、私がそれらの事事に対して人間的な反応をしていないので、つまり凡そ人と人の間の架け橋として実現される感覚や感情の一方を私からは常に提出しないので、殆どの場合の殆どの人間はそれを感知し切れずに肩透かしを喰らうことになっていて、繰り返し、この齟齬と不整合と不適応に苛まれているようなことにはなっていない

これは文字通り有り難い

情報の総体に対する囲い込みや鋳型鋳造の結果が想念であり、人格と呼ばれる情報体もここ想念に含まれる。インフォメーションが茫漠たる流れそのものであるのに対しイメージイマージュとは意識によるゴムバンド、意識というゴムバンドの縛りを借りた淀みのようなものだ。私を含む多くの人はこの淀みに更に竿刺し、淀んだ水面に写る像に一喜一憂する。そもそもこの一喜一憂とは全体たる壮大な流れの中では実現も温存もされない、小さな水面の水溜まりの中や内でしか起こり得ない出来事だった

茫漠たる情報の奔流でしかない全体に対して束縛と囲い込みによって淀みを作り、そこに竿刺して像を作り反応している。こういった在り方とこういった在り方からの離脱と往復が人間なのだろうと思う

人形にも神にも興味は無いが、動物や神々の感覚と運動の世界には、私はいつも興味を引かれそして、注がれてしまう

私は根本的に豊穣に適応した森の、バランスを知る一個の動物として成立している。これそれとしての発達のために私は何事も何物も資源ないし時として他者による感覚としては犠牲とするし、私は私とは少し遠くずれたところにあるわたしのような見地から、それは美しく正しく真実であると断定している

この最後に顔を出した断定というものもまた、今の私には本来的な奔流として感じられるだけであって実は情報の全体からすると溜まりや淀み、水溜りでしかない部分領域に突き刺した竿、その差し込み、自我による侵襲と分断作用、自我という侵襲と分断作用でしかないのかもしれない

ただの記号的羅列に託けて何をどう言っても許されるような自由として、私は以上のような情報量ゼロを認めた

まずはステップバックをしてみることだ。カウンターはそれから。慣れればその場でそれより先に、矛盾と無重力を孕むカウンターを放つことだって出来る

光と音が肌で感じる振動となる頃、そのような時所、意識の意識というゴムバンドが少しは緩み解かれて、小さな水溜まりに差し込んでいた数多の棹を失い、仕方なく入水したその先でお前は、元来の奔流、茫漠たる情報の流れ、その総体に呑み込まれ、動かされることとなる

そこには主体性はなく出来事だけがある。このような稀有なる無力を、いつまでも忘れないということだ















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