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行って帰って来る、触れる、例えば神津島に泊まる(情報レベルから物理まで)
最低限の文字情報で最大効率的に演じる
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ネット予約で割引あり今現在6510円
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新参系ゲストハウス等は載ってない
旅館も全部は載ってない
古参系の旅館か新参系のゲストハウスのどちらを選ぶかは、旅行の目的と旅行者の基本的嗜好に依る。分岐点としては、自炊をしたかったり、宿泊費を安く抑えたい、他の旅行者と交流したい、ゲストハウス経営やそのオーナーに興味がある場合等は後者。ただただゆっくりしたい、ご飯もスタンダードにお任せしたい、物的施設からして気風と趣のある場所に滞在したい、館内温泉を求める場合等は前者。古民家系ゲストハウスで個室があり、それがリーズナブルで、かつオプションとして凝った郷土料理が提供される場合等は両者のいいとこ取りとなる。但し、より一般的なレベルで重要であるのは、そこが、やりたくてやっている雰囲気のある、祝いのある場所であり、呪いの少ない時間であること。新参のホテルには利便性と確実性あるが呪いさもが安易である。神津島に所謂ホテルは存在しない。
以下は新参系ゲストハウス、観光協会サイト未記載。宿泊費はドミトリー個室の全パターンで一人5000円前後。
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自分は特に拘りが無い限り、静謐さと、それとない愛を感じる、可愛いゲストハウスを選んで、基本的に自炊する。やっぱりこういうとこもいいなと思わされる旅館があればそこにする。箱根湯本等の、ゲストハウス文化が振興しにくく、確かにその土地の伝統的気風には大きな価値があるような場所では、その中でリーズナブルと思われる老舗旅館を選択する。
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一方で、その土地を生々しく感じさせてくれるような、非常に稀有なるパーソナリティー、遺伝的特質に支えられた、激しく貴重でありながら原価に近い、源価に親しいゲストハウスに、ちょっと狙いを付けて旅に行くこともある。ここまでくるとゲストハウスという呼称に意味は無く、そこらの風土と流水を感じさせてくれる人家的領域でしかない。本来はこれが本来的であり、市場を間借りして展開される記憶上のコミュニティのように思う。
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その他、神津島と本土間では、黒曜石の交易が盛んに行われており、予約不要、意志と確かな技術のみによって参加参画、推進することが出来る。時は二万年前、黒潮文化圏の中心である。
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私は既に、行って帰って来ている。黙って、表情を変えずに。二万年前にも触れたのだ。次は物理で行って今のみに触れて帰って来ようと思う。現地では本当にそこにあるものどもと、何かしたりされたりする。
追記
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村役場から浅間尾根を辿り三頭橋に降りた
三頭山からの急峻な下りはどのルートも危険
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踏破ルートは枠線内長径以上
先月の中頃辺りに、東京都最西南部の檜原村の、村役場から、尾根線を完全に縦走して奥多摩湖まで抜けるという、弾丸行脚をした。その際、事前に、情報のレベルで、完全に行って帰って来て、触れてから、その後に、物理的に行って帰って来て、触れた。現地では、むしろリアリティと重量が無いというか、不思議な感覚だった。浮ついていた訳ではなく、そこここの場所を通り過ぎたものらの痕跡を見つけて、触れたり、辿ったり、確かに物理的に、つまり物理から情報のフルスペクトラムで私はそこにいたのだが、不思議と、事前に、純粋に情報のレベルでそこに居て、在った時の方が、リアルで、重量感があり、色彩も豊かで、興奮があり、瑞々しかった。静かで、漣も無く、とてもソリッドな記憶だった。私は、何故か、ということもなく、確信を持って、悲しくなった。それから、行って帰って来る、触れるということを、他の人々が、しているのか、しているのであれば、どのようにしているのかが、気になり、知りたいと思うようになった。どちらの運動についても、私の強烈な本能であることを自認している。
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