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高さ低さについて覚え書き




貴方は人間の低さを支えるものであるからそれでいいと思います。ただ、透明な低さであって欲しいという絶対的な一点と、その為に、高さ低さについて自然で本来的なイメージを持っていて欲しいとも思います。まず、高低と優劣は関係ありません、そして、高さは低さを含みます、が、含むということは優れているということとやはり徹底して無関係であり、ここにはただ半球に半球を重ね被せたような関係性のみあります。本当にその関係性という静態とその内で起こる動態しか存在しません。どちらか一つと言われれば後者を選びます。この関係性に於ける低さは、高さに対してより具体的な時分と事柄を担当します。司るや扱う、運命付けられると言っても構いません。翻り高さは低さに対してより抽象的な時分と事柄を司り扱い、担当し、運命付けられます。低さにとって手触りの無い物事に触れてそれを動かすことを本分とし領分とします。逆に高さにとっては手触りのあり過ぎる、摩擦や癒着の高いものに触れることを、低さは好むのかもしれません。でも、やはりこのような対置の関係は嘘だと思います。生命の有限性というものが無ければ対置ではなく包含が明らかだと思います。有限性を前提として分担が発生し、この分担に対置を見るものも多いと思います。しかし、分担とは意志と意思決定と方向性でありますが、対置とは往々にして静態としての関係性であり、物事の本質的な在り方とは相容れません。同様の主張に異なる表現を与えることは可能ですが、今回はこのようにさせてください。次に、高さ低さについて自然で本来的なイメージを持ってもらう為に、今貴方に知ってもらいたいこと、私の文章を通して試しに、優しく触れてみて欲しいこと、それは、高さは疎外を受けやすく、低さは狂いを受けやすいということです。

(   疎外が狂いとなることもありましょうが、やはり狂いの起こる領域は異なるのかと思います。疎外された高さの狂いは精神に主軸を置き、低さの狂いは肉体に主軸を置くようです。が、このようにして対置のニュアンスを持つ文章表現に行き着くこと、情報の下流に辿り着いて分岐を説明することに、今は時間も空間も費やしたくないので、そうとだけ言って先に進みます。  )

高さの疎外は必要であり必然であるのでどうでもよいのです。むしろ疎外に発生する位置エネルギーは機能として成立して事態を回収し役割を成就するものですらあるので、これを疎外という必要すらありません。必要最低限である言葉の枠組みはいつも通り徹底して、位置、役割、方向性です。本来的な動態のために移動を追加してもいいのかもしれません。そしてさてしかしながら、低さの狂いは必然であっても必要ではないのです。具体的な事柄や物事、領域に於ける手触りと移動を司る彼ら彼らが、往々にして肉体を主軸として、またはどうしょうもなく肉体から生活から居住形態から狂ってる理由は、あるのでしょうが、そのことの必要は皆無であり、そのことに自然も自明もありません。このような不要で不自然な無明が発生している理由と責任は、それらを問うてみるならば、間違った高さ、高さの間違いにあるのだと思います。そして高さが間違い高さに間違いが起こったから、高さ低さの本来的な交信と交流も阻害されています。勿論のこと、その心地よさも不可能になっています。不可能ではないにしろ、相当に鋭意なる営為と作為を必要としています。往々にして、高さがそれを作出して提出し、低さがそれを信頼して受容するという、むしろかなり高度困難な中間プロセスを必要とするようになっています。これは隘路です。とても隘路に思います。でも飛び越えなくちゃいけません。その跳躍力は今、やはり低さにはありません。だからやっぱり飛ばなきゃならないのです。これはどの字でもいいです。

勿論これは一人の人間の内にすら起こり得る出来事であります
















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