おつこん(おへんじ)



おつこん

提示してくれた事実や言説は既知だったけれど、個人的にタイミングがよすぎてびっくりした。反応として湧いてきたものの全部を纏め切ってから返信しようと思っていたけれど、時機を逃すと失われるものもあるので、現段階の乱雑さとぶつ切り感でぶわっと失礼する。

①前提として君の意見の要旨

まず、君の前意見の要旨は「物理化学的機構に対して物理化学的に介入するしかない」という風になると思う。その「介入」が、操作という程の確実性や精確さを持つのであれば「遺伝子工学」となり、干渉という程の強度や非確実性を持つのであれば「食事療法」や「薬物療法」となるのだと思う。

②議論に全体性を与えるための反論提示として

その上で僕は、「物理化学的機構に対して非物理化学的に、社会工学的ないし都市工学的または間主観工学的に対処することもできるはずである」と、補完しておきたい。

逆から言うと僕は、同じ系統のハツカネズミを飼育するとして、生育環境を工夫することで「セロトニンの分泌量や結果的使用量(=機能量)」、そして更には「セロトニンに関わる遺伝型」をそれなりに自由にデザインすることができると思う。後者の変化についても意外と素早く、遅くとも数世代で起こせると思う。その際の生育環境について統制要素となるのは、

例えば、
・個体数、個体密度
・ケージ内の物理的高低差や障害物の有無と数
・照明や空調や餌付等の非ケージ要素の変動幅
となり、それぞれはこの順に、
・社会的な複雑性(個体の目線から表現すれば予測可能性、主観的により正しくは予測不能性、以下予測不能性)
・物理的な予測不能性
・化学的な予測不能性
を統制することを目的としており、究極的には個体の直面する予測不能性の全体や総量が統制されることになる。ハツカネズミは間主観性を構成するほど知能が発達していないので、上述の統制に間主観工学的なものは入っていない。

ちなみに「ケージ内の物理的高低差や障害物の有無と数(物理的な予測不能性)」のインパクトは結構でかいと思う。地中海性気候の乾燥した平原とモンスーン気候の密林ではこの点が全く違い、個体が日々直面するのが予測可能性なのか予測不能性なのかという程に主観的情報世界の質感が変わってくると思う。言い換え、不安の必要度合いが変わってくる。その上に麦作と稲作という異なる組織原理をそれぞれに重ねれば更に、不安の層量と効能の差は開いて行くと思う。もしかするとこういった事柄は実際に眺めてみないと実感しにくいかも。

上述のような統制、環境由来の介入はセロトニン以外に対してもできるだろうけれど、ドーパミン系よりセロトニン系に対しての方が難しい、統制法が複雑精妙になると思う。このことは人間の特異性(特異な社会性)にも関わっていると思う。

ちなみになんだけど、監獄実験系の実験における状況順応性については、国や文化圏での違いは見られなかったらしいよ。勿論、そういった状況への順応性をセロトニントランスポーターに関する差異だけが左右している訳では絶対にないけれど。ただノルアドレナリン抑制因子であることからしても監獄回避因として大きいとは思っている。

③その他、断片的に継ぎ足しておきたいこと

・前回君から返信をもらった日は、丁度友達と『GATTACA』を観る予定があって、それを遂に見た日だった。その友達は「脳みそがん開いていて色々上に上がりすぎてて現状しっちゃかめっちゃかしてもいる本質的には健全の民」で、『GATTACA』という映画は「どうしてか自分の母親が一番好きといっていた映画」だった。前者については単純に時間的符合が喜ばしかったってだけ。そして後者について話を進めると、トレーラーからの印象としては時代遅れの素朴で綺麗なSFでしかなかったからどうしてこれが母にとっての一番なんだろうと長らく思っていたという経緯あり、物語の筋がそうであることは確かな事実だったのだけれども、なんというか、物語の背景や隙間から、「S志向社会でL個体であり続けることの悲哀と興奮、使命感を帯びた希望」のようなものが感じられた。もし母がそのようなことを意識的にでも無意識的にでも感知した上で、「なんかこれが一番好き」と言っていたのなら、僕は肉親をもう一度好きになれると思った。そしてこの母は、義母からはアメリカ人と呼ばれ、夫にも時たま宇宙人と呼ばれていた。そして後者については僕もそうだったしそう。この断片終わり

他に僕個人の嗜好志向性向遍歴として、

・フロイトは無理でユングはまあ読んだ、でも選ぶなら絶対にエリクソン(ユングについても河合隼雄の方が粗熱取れてる)
・ウィトゲンシュタインは偉大な滑稽、ソシュールは偉大な悲哀で尊敬、チョムスキーは好き(多分間違ってるけど)
・ニーチェよりバタイユ、またはチャップリン(俳優括りだとヒース・レジャー)
・カフカよりカミュが好きだと言いたい
・ダーウィンも好きだし摂取したけど、身体に刷り込んだのは実はラマルクで、ラマルクのエッセンスをカルト並みに受容して実験実践した西原克成(一般書レベルでの理論的主著は多分『免疫、生命の渦』)の著作群は結構読んだし、ぶっちゃけ自分のトレーニング感のベースを形成してもらってる。(トレーニング感のベース形成因として他にあるのは、ポール・ウェイド、成瀬雅春氏、高岡英夫『究極の身体』、Mフェルデンクライス、the 室伏広治、為末さん、アレクサンドル・カレリン(できるだけ原始的に野蛮に)、WAプライス『食生活と身体の退化』)
・ドイツ観念論的な人々もハイデガーもどうしてか無理、アレントを通じて彼ら男子諸君全体の輪郭を緩く感じるばかり。その無理感は京都に引っ越した時とか近畿地方に行った際に感じる「全体としてここの人々は俺と全然種族感が違う、ここは俺の郷じゃないなあ」っていう拒否感と似てる。文化としても人としても好きではあるけど、生理的なレベルでの異なりを否定できないような。多感な時期を選んでそこに居たことは財産だった。ちなみに大学構内への生理的感触はまた別で、他の大学もまた別だった。

急に激しいこと言うけど日本の中でも近畿以西九州より北はS感が強いと思ってる。それで言うと君は俺よりもハードな環境で生育してきた。この点を踏まえて、お互いに「あり得たパターンの一つ」であることは正しいのだと思うし、そう思っていた。

ちなみにここまでの全体を全意見に対して無駄なく集約するのであれば、

₁ 東アジア特に日本にて多く観察されるセロトニントランスポーターss型というかs要素は、人間がユーラシア大陸を東進して行く過程で培った適応だと思っている。(他にもそういう適応ストリームはあったろうがこの大陸東進がメインだろうと思う。)

₂ 何に対する適応かと言えば、個体が眺めて直面する環境の予測不能性であり、それはそこの地理、気候、その上に選ばれた食性と、食性を起点として発達した組織原理に由来していると思う。(一点突如言及、麻の実等のスーパーフード(それ自体が complete food であり文明食に対する complementation food)を中心材として文明が興る(人間が求心される)ことはあり得なかったのだろうと思っている。)

₃ 個別具体的に日本に関して言及するなら、半島から農耕社会に擦り潰され押し出されて来た人々がss型多数状況を決定的に作り上げたと思う。それ以前から居る人々も気候地理に直接由来するようなs要素をそれなりに有していたとは思うけどね。

₄ ちなみに僕は僕として、sを受容し突き詰めたような残酷と静謐は結構好きで、だから所謂「フランス人を筆頭としたヨーロピアンの日本文化好き」ってのには頷ける。

₅ あとここまで書き足しつつ、今迄に収集した、各種の代謝解析や遺伝子分析のデータや父母両系の人々に関する聞取りや観察に依ると、私は大陸系と島嶼系の綺麗なハーフなのだと思う。この島に居る誰もがある程度そうであることの度合いがしっかりしている気がしている。そのディティールとして、父方大陸系についてはモンゴル遊牧民性が、母方島嶼系としては南方山岳民性が強く現れている。父と母それぞれに観てきた性質でありその合流としての自分にも感じ取って来たこととして、大陸由来の徹底さ勤勉さ残酷さ偏執狂さ狭苦しさに重さ、島嶼由来の奔放性散発性拡散性柔軟性流動性に軽さ、がある。誰にでもあることを意識的に彫刻稠密してきただけかもしれない。一言で言うと俺は sL なのだと思う。ここの遺伝子多型についてそれとして調べたことはない。(大陸島嶼とかいうと全体の論構成を混乱させるかもしれない。)

₆ ということで環境変えれば遺伝子多型内のコントロールも出来るんじゃないか? 前提を継ぎ足しちゃうけど、近代以降の多型内浮動は、地理気候食性よりも間主観性(地から浮いてる各種の思い込み、純観念)に影響されるようになっていると思っていて(標準化された近代都市が行き渡ったから)、そんで結果として世界のどこでもs指向性が強くなっていると思っている(フランス人もアメリカ人も不安になりやすくなっていると思っている)のだけれど、間主観性こそは人間によって観察干渉介入制御統制する余地があるのだから、当初少数派の謗りを受けようと何らかの変異や転換をそこに展開していきたいよね〜終わり(数世代後にはフランスでもアメリカでも s要素ないし ss型が増えてるだろうというような遺伝子観を僕は持っています。ていうかじゃないと皆アフリカンでしたよね。アフリカンからアジアンを「突然変異と自然選択による波及拡散 ( × 地理による収束 ) 」とするのは冗長過ぎ。←ここにラマルク出てる。)

④やはりもう一つ、被虐者意識のある人々とその言説について

その人々による言説の正誤はさておき、そして実際にその人に被虐体験があるかとも関係なく、現在において被虐者意識を有していてそれに苛まれていたり、言動や言説の原動力が被虐者意識になってしまっていたりそれに留まってしまっていたりする人のその言動や言説には、余り近づいたりしない方がいいし、多量摂取しないほうがいいと思う、と、一他者として伝えておきたい

アイコニックに分かり易い人を分かり易い順に言えば、
DaiGoさん、中野信子さん、堀江貴文さん、中島敦さん、アイコニック知識者の殆ど
そして若干または迂遠な被虐者意識と行き過ぎた諦観による歪みを感じる人として、
ひろゆきさん(でもそうなるのは分かるし仕方ないしそのポジショニングは全体として有り難いのかもしれない。。)、成田裕介さん(ちょっと言いすぎかも。でもこの先そうなるかも。個人的に凄い好きだけど。ていうか友達になりたくはある)

セルフでフォローまでしとくなら、言説の正誤で言えば正しいことも多いし、普通に有益有用な言説を提供してくれることも多いし、被虐された経緯は不当でしかないし、それは当人が当人なりの社会正義を追求した過程での受難だったかもしれない、のだけれど、最終的に幽霊(大脳辺縁系固着増幅装置)のようなニュアンスが存在感に混入している人やその言説からは、いつでもどこでも出来るだけ距離を置いたほうがいいと思っていたりする。

最後に蛇足するけど「見える系」を筆頭としたスピ系の人達って

・深くまで開いてるのでレアデータ(データレア)が深くまで入ってるのだけれど
・上げ方が足りなくてそれらへの処理自体は低いところ、大脳辺縁系、究極的には自分の身をそのまま守るための無時間空間、擬人化(猫は猫以外を猫と認識している)と不安恐怖と小さな喜怒哀楽を使ったり起こしたりするところでしてしまっているから
・なんかなぜかビクビクしてる感じがどうしても不快ではあるし、表現系として言うところ究極は自己保身であり自己利益であるので哀れであること多いと想っている
・・アインシュタイン等を見習って、深く入れたならめっちゃ上まで上げましょう。そしたら人間消えます。その後に人間に帰って来てください。出来れば大きな破壊は挟まないでください。(見て欲しい、見て来て欲しいのは時空以上の抽象幾何。)
・・被虐意識は上げ方をめっちゃ下げるので、それに苛まれて下がっちゃってる人のそれは解いてやるのが吉。もしもその人が臨んでいたり、そうすることが貴方にとって必要であるならば














ae