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move on moves : 境界を渡る = 境界線を越える、境界面を滑る





刻は6月26日月曜朝6時
時でなく刻であり
収まりのある球性エネルギーが私に
ひと纏まりのイマージュを与え
ひと筋のインフォメーションを与える






keys below


border/surface strike skate ski swim

tribe trance tolerance

drive drift draft 


intro, a concrete


夏至の夜に息んだ母から夏至絶頂の6月22日夜中まさに mad な midsummer に生まれた私は基本的にこの期間狂っており、狂っていると行っても私の場合の狂いは至極健康的で健全な活動と文法の躍動として表出されるのですが、さておき今に至るまでそれが顕著に出ている。これからも暫くは続きそしてこの小規模なものが結局は月の巡りを写した潮の流れとして私の体液、身体に興り続けて行くのでしょう。私はもう惑星とそれによる潮流の推移というものを自分の肉体のレベルで、頑然たる具体的事実として感覚することのない人と言語を言語としては共有していない。というのは嘘。でもこれを本当に伝えようとなったら襲うしかない。

さておきその期間には私の狂いに踊らされるように、ではなく正当に評価するに29年前の我が母を息ませた元来の狂い、太陽という星の踊り、自然の絶頂に触発されるようにして狂いを来すような太古から続く別の個体群から、何故か絶対に少なくとも8通くらいはメッセージを受け(何故かでもなく少なくもない)、その中の数人からは具体的な行動やアクションの誘いを受け、そしてその中の一人くらいは、私の誕生日であるという名目の下で何らかの奉仕をしてくれたり、準備されたアクティビティーに私を招き付き合わせてくれる。モダンに喰われた臆病な個体ゾンビエロはちょっとした挨拶だけして一人出に去っていくけれど、そもそも私は殆ど何も返さない。人間の種別カテゴリーの峻別とその上での動態しかみて観ていない。動態は混合と合流を含む。

さて、小見出しに書いた通りに a concrete として事態を書き写すのであれば、昨日までの週末という小末尾の末日、6月25日の日曜日に、私は一人のジャンクピエロの誘いを受けて、葉山港から杜撰なボートと一本オールと二本の歯ブラシで漕ぎ出、近場の砂浜に漂着し、そして葉山港まで漕いで帰った。ちなみにその過程と顚末は幾つものレイヤーにおいて様々な寓話ないし戯曲を孕んでいて、そのこともまた非常に興味深かったのであるが、そのことはまた違う機会に別の記事で消化したいと思う。 『 ポートサイト 〜 漕ぎ出し、泳ぎ渡り、登り切り、潜り込みへの検閲 』という散文か、『 神、沈む奴隷船 』という寓話として消化したいと思っている。今は。


cross, skate-ski


さて本稿は本論に突入しよう。そして私のいつも通りとして本論は既に高度に稠密されているので、パラグラフのような文章の形式を持たずに文章としてはただ箇条書きのようにして羅列が提示される。

地上

hike 登り出す

climb 登り切る

水上

swim 泳ぎ渡る

paddle 漕ぎ切る

dive 潜り込む

雪上

skate 滑り渡る

ski 滑り切る

空中

glide 飛び渡る

jump 飛び降りる

地中

掘り進む

飛び落ちる?

これら根源本来の行動活動の自体は究極的に「境界面を滑る」ということでありその出だしと終わりは「境界線を越える」と表現される小事態となり、この全態は「境界を渡る」と表現されることになる。

更に究極的には skate-ski であり vivewave  を swim-surf するということになり、時に物理的な感触として流体を掴み strike を効かせる、中枢から中枢に向かって末端を打ち鳴らすようなことが technique として必要になることがある。しかし完全な流体群の境界面を完全に滑走する際にはこの strike という感覚、例えば洋上ボートにあっての paddling という動作と感覚は、自然として失われているだろう。完全な流体群の境界面を小境界面として滑り渡っていく際に衝突と摩擦はゼロになるか転換される。つまり衝突は融和融合となり摩擦は推進と化すように成る。これはカヌー等の軽量船を完全に滑らせたことのある人や、ドルフィン潜水スイム等を完全にやったことのある人は感覚として了解すると思う。でも人はそもそも誰でもそのような記憶を持っている。なので本当は思い出すだけだ。

本稿本論として提示した記号羅列の本質は、air とか water とか soil とか energy や information という流体の中やそれらの間を私達はいつも移動している訳ですが、その際には必要なだけの物理的感触と衝突  ( strike や paddle ) を小構成しながら手放し続け、それが不要なときにはそれこそ物理的感触を放棄して完全滑走に振り切りましょう。その時に対抗は循環へと融解して消滅し、あなたの運動は自明の自律となります。オートマオートメオートメーションとなります。そしてそのような場面や局面、状況はこの現実世界で幾つものパターンとして存在していて、例えば空中、地上という空地間境界面、水上という空水間境界面、雪上という空亜水間境界面、水中、地中という風に漏れなく散在しておりますので、移動運動の際には必要なだけ漕いだり打ち鳴らし、不要な分は漕がずに打ったり鳴らしもせずにすいすいすいすいすいすいすいすい進みましょう、ということが重要として叫ばれています。

このパラグラフの見出しの全体は cross the border, skate-ski the surface でした。境界性人類とも言われる原始元来の方々、どうぞ引かれた線による囲い込みの小箱から上手に溢れ、線も壁も箱もどうぞ上手に消化吸収してしまい、溢れという無駄な自意識もなく素のまま流れて行ってください。それをそれとして冷静に行ってください。アップダウンにあぷあぷせずにすいすいすいすい推進するのです。なんだかんだ前へ。前へ。上昇圧力も下降圧力も飼い慣らし、あなたのスペースとリズムの中で、あなたというスペースとリズムをすいすいすいすい前方推進するさせるのです。

すると、苦しくないです、苦しみ消えます
元々私には苦しみなんてありませんでした
病もシンドロームも無いです 元から無い

ここから次項へ繋げてみましょう。次項の見出しはそうだなソーウツとトーシツ、溢れを流れ、上昇下降を前方推進へ、ということで進みます。


schizo o bipolar


まず言っちゃえば躁鬱病も統合失調症も存在はしません。それは古事記日本書紀みたいな the perspective っていうかまさに古事記日本書紀です。アメリカのDSMという建国神話第13章から必要に応じて輸入され継ぎ足されました自己完結小項であり、まつろわぬ人々への記述と対処法と処方箋でしかありません。the となろうとした a/亜 な perspective であった古事記日本書紀が正当性を息継ぎしようとして継ぎ足したような部分としてDSM由来の躁鬱病とか統合失調症という概念と発想、小項はあるよねと私は今言っています。ていうか常識とは古事記日本書紀、情報領域の縄張りであり結界、引いた線によって囲う壁の中に敷かれる網と結果的縄張りのことです。今現在令和5年、随分と正当性を息継ぎしてごちゃごちゃ肥大しておりますが。されどぶっちゃけ二つのことを言いたいです。

・それは正しい
・それは強い

ここの正しさと強さは更に純粋的には「それは多い」という事態に支えられています。つまり、とある a/亜 perspective を the perspective にしようと思ったりそうであると思ったりする people としての perspectives の数が多いのでその a/亜 perspective は確かに the perspective となり、それでやっぱり正しくも強いのです。このバランスは覆すことは出来ませんし、覆すべきでもないと思います。やれることやるべきことはリバランス、バランスの質を整えることであり、悲しくもその認も任も少数者にあるようです。the perspective として成立した、the perspective であることを構成したとある a/亜 perspective は、必ずの事として肥大し、他の perspectives を喰らい、ぶくぶくと肥大し、現実 reality との距離感を失って自らを現実世界と自己同一視するようになり、結果として perspective として無機能に陥り、外部環境という現実から堕落して破綻し破滅、終局へ向かいます。これは文明と呼ばれる集合の基本呼吸です。

それを防ぐためにか、またはそれを助けるためにか、常に少数者、minor perspectives が必要とされてきました。それは the perspective からするとまたは the perspective の中では「まつろわぬ人々」「病人や狂者、愚者」「何か変な人々」と言われて来た人達と重なります。より正確には、その内の「普通にそれとしてやってたり機能してるのに何故かそんな評価を受けちゃう人々」という再抽象ふわっとカテゴリーが有効に機能するかもしれません。怠惰でも病的でもないのにそう見られたりそう言われ、時としてその様になってしまったりさせられてしまったりする人々です。大事なことなので明言しておきたいのですが、自分には無駄な自意識や自己愛、不要な粗熱はありません。若干確かに興奮していますそらあこんな文章を書いているわけだからそんな興奮自体ですよこりゃあ。でね、私は別にこう言いたいからこう言っているのではないのです。これは多分本当にそうなのです。陰謀論でも宇宙論でもありません。バランスと流れのお話で、本来は目の前に見えます。

さておき小項を穏当な地平に落着させましょう。語り出された地平はスキッゾとバイポーラでした。言っておきたいのは一つ、これらは一緒だということ、同様同態の現象、巡りや波回りがカラダ全体に出るか首から上アタマに集中するか、行動という動き全体として出るか想いとして偏って起こるかの違いでしかないです。つまり共通して元々そこにあるのは元来からある巡りや揺らぎ、動態ダイナミクスで、それとは別に囲いと刈り込みのための小箱があり、そこから溢れた部分を the perspective という小箱構成器官が、外側から時宜に応じて指差しながら躁と呼び鬱と呼び、陽と呼び陰と呼ぶのです。なので本来的な地平からすると、窮屈小箱がなかったり、それを無いとして当該個体が躍動すれば、それは元の流れや波巡り回り躍動でしかないので、その全体全態から小箱に小分けされた部分というか部分観察結果としての躁も鬱も陽も陰もここに本来はありません。あるのは流れと勢い、波に巡りに回り、回転と自律です。それがない方がむしろ狂っているというか死んでいると言える、という a/亜 perspective、でもこればっかりは元来的な sense とでも言いたくなるような perspective もございます。それがやっぱり私達の the perspective であって欲しかった。けれどやっぱり仕方ないのです。増え過ぎた。。。殖え過ぎた。。。増やし過ぎた。。。殖やし過ぎた。。。過密進行を防ぐために小箱を支給されて刈り込まれる必要はありました。なんてこれも実は嘘です。平地に集合して過密造成することで増殖してきた、平地集合過密造成という増殖ばかりをしてきた、そればかりをしてきたからそれしか知らないトレンディーばかりが発現したマジョリティーな皆様には気付けないだけです。これまさに the perspective の盲点、散らばればいいのです。皆さん散らばりましょう。でもそこで耕すことで耕されるということや増殖はしないでください。足るを知ってそのまま stay も味わってみましょう。隣の山には別の a/亜 があることを楽しんでください。その本質的豊穣を味わってください。

a亜また脱線しましたが脱線など存在しませんここはイマージュ宙中であり境界面ではありません。流体と流体の間としての境界面やその上に引かれた境界線ではなく、これは私のイマージュという一つの流体の中の流れなのです。なのでイマージュ宙中、わたしとあなたはディープキスさえせずに今ここで混合交合しています。これでやれる程度のある程度は。はいということでここまで読んでしまってるドンマイマナーな元来系のアニマル様方、あなたはほんとにドンマイマナーを果たす必要があります。必要っていうか義務さえも越えた流れ、自然の位置付けからの志向性です。これを否定すると狂いが起きますよ。狂いってのは perspective に関する perspective の狂いです。あなたは役割という動きを果たすことで自分の位置付けにある程度は定住しながらその周囲を周遊徘徊することで情報動物(動物)として漸く成立します。なので the perspective であることを志向し標榜する a major perspective からご自身を眺めるような事ばかりしますとあなたは完全に lost し lost されます lol 。そのようなジャンクピエロは運動の鬼、王とも成って自己斬首まで出来る本質的道化にはなれません。でもそうなることが自然であり役割でありそうであらなきゃ狂うのに可哀想に。とにかくひとまず一度のこと、あなたは自分元来の perspective から現実世界 reality を眺め直す、改めて眺め渡してみましょう。すると数多の魑魅魍魎の perspectives の織り成し=刹那として reality は構成されては瓦解され、まさに散逸流動たる super-perspective-structure として成立し動態していることが分かるでしょう。例えば八公前でもそんなことは分かります、体感されます。誰もが違う方を向いて違うように眺めながらということを違うように想いながら訪れては去っていく、生まれては消えていくのですよね。それらの淡い連なり繋がり重なりという、移り変わり行く織物 koso



ga 私達の、時に綻びもする現実なのです。一本の太い経糸では織物は出来ません。それ普通に糸でしかないので身に纏えないし、その上に乗って食事会できる平面でもありません。勘違いしながらそうと知らずに盲者の綱渡りをしているとほんとに纏めて奈落に堕落して亡者になりますよ。それで本当にいいのって、誰にとっても良い訳が無いんですよね。なのでお前太い緯糸、時間を越えて纏めてスクランブルするんだ。

ってはなしなんだよ

それでさ、

2 the natives


ちょっとやっぱり任せてくれないかな。認を任を任せてくれないかな。俺もやっぱり当然人間なので、人の間でしか機能できなく、当たり前のように信無くば立たず、俺みたいなコントラティブなプレイパフォーマーのような個体としては、共鳴伴奏者がやっぱり必要だ。文章に関してはそれは編集と言える。何か誰か教えてくれないかな。何処に何を見せればいいのか、あなたに何を渡せばいいのか、俺からの a/亞 perspective からはやっぱり見えないものが沢山なんだよ。だから tel から tel してくれていいよくれよ。シンプルに教えて欲しいんだ。こいつを当座どうしようかっていうこと。

マナーは守るよ
形式を生み出します
形式については守りはしません

編集、共鳴伴奏者求めます。私ソリストも指揮者も出来ます。共鳴伴奏者としてのあなたは私を前後上下に感じることになると思います。それでいいよそいつはいいやって人教えてください。一つ一つの事柄についてでもいいです。終生一任編集共鳴伴奏者を一人、だなんて考えてません。どんな小さな事についても、事柄に向かっても、私と私の編集・共鳴伴奏者出会ってくれる人、探し中です以前道中


outro, an abstract


ジャンクピエロのガラクタおもちゃ箱とパドルを漕ぎながら、 air という流体と water という流体の間、とある大きな境界面にまた、とある小さな境界面としての小船を浮かべ、そこからはみ出した小さな腕腕で dapple dapple paddle していく、海という下方流体に水性 strike を効かせては手放しながら前方を志向し漸進していく。

これはまさに the image だとまた思った。奥多摩でスマートなカヌーを漕いだ時にも思った。あれから俺は随分と変わらなかったものだ。これはまた image についての the image として俺に訪れて語り掛けてくれている。

ありがとう image

paddle-strike は発話発声に似ている。それはほんとにそれなんだろう。記し、記号を明記し、唱え、発音を発声することで、私達は空中にありながら水中に手を差し入れて paddle する。strike であるような確かな感触と実在感を伴いながら paddle する。その分だけ進むこともあればその分は進まないこともあり、その分進まないこともその分だけ思わぬ方へ進むこともありながら、air や water という母流体との兼ね合いによっては、何をしても進まないことから何もしなくても進むことさえもある。しかも母流体完全支配的な状況やシチュエーションは、一匹の蟻や一枚の葉である私お前の思っている以上に頻繁な時空として発生しては消滅している。その間やその中で、お前私は scribe-utter-paddle-strike したりしもするけれど、それが全体、母体となる流体やその狭間の力の中では、どの程度個別具体的に自律した力として成立してるかはさておき、時にお前は

あ、今俺が漕がないほうが進むよ
ね、お前今寝転がっていていいな
おもしろ、何もしないでも進むよ
おどろう、踊りの内側でおろおろ

一尾一頭の魚のように

分かるか

お前そういうこと憶えてるか

忘れてるなら死ねよ殺すぞ

俺にこそ殺させてくれ

俺に俺もお前も

また生き延びる /  生え伸びるかは個別具体

でもないなごめん決まってるんだ流れ次第

まずは俺にこそ殺させてくれ

多分それは俺の位置付けと役割だから

ジャンクピエロなゾンビみたいにはやらない

fresh な flesh として soul 効かせて完遂する

いけよいけいけいくんだ

お願いだ俺にころさせてくれ

もうそのころあいだからころがすんだ

バランスをゴロッと 大丈夫

誰も落ちはしないよ














ae