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寓話 『 貨幣の通る城 』




「 救われなければならない 」

と、確信した私は、近いうちに城を訪ねることになると理解した。その城は街の外れに、人々の生活とは関係ないような素振りで立っていて、実際のところ、「 救われなければならない 」と確信した人々が時より尋ねる他の来客もなかった。

無骨なレンガの塊が、メキメキと地上から樹のように生えているかのような風貌で、その幹の周りをまたレンガの城壁が取り囲んでおり、城壁には慎ましげな門が一つ嵌め込まれていた。

城を訪ねた人は、街に帰っても一様に「 救われました 」と言うだけだったから、城で何が行われているのか、街の人々は知る由もなかった。ただなんとなく、誰かが城に行く前日くらいには、その人は城に行くんだろうということを周りの人は理解した。

城に行く兆候や手掛かりのようなものは幾つかあった。確信に満ちた目と、手にした一つのレンガ。レンガは大抵自分の家の門扉あたりを崩して持っていくようだったが、その目に宿る確信はどこから来たのか、親にも恋人にも分からなかった。

周囲の人々からしたら奇異だったろう。長い間、切迫さそのもののような目をしていた私が、その目の緊張を急に溶かして、柔らかいバターを納得して呑み込んでいるかのように、うんうんと頷きながら我が家の門扉のレンガを崩しているのは。

崩したレンガは暫くの間、私の書斎の机にポツンと置いてあったが、誰も何も言わなかった。私は身の回りの全てに背中を押されている気がした。そう言えばそもそも、門扉のレンガは既に一つか二つ欠けていた。多分どれもが初めてのことではないのだ。安堵か不安が奥底から湧いてきて、私は柔らかいバターを肚からそのまま吐き出した。

机の上の羊皮紙が、じんわりと黄色で染められていくのを眺めながら、私はまたもう一つの確信をした。もう出発しなければならない。翌朝に私は城へ向かった。


*****


城は昔のままに立っていた。記憶を辿ればすぐそこに慎ましげな門がある。鍵のない門をぎいと開け、私は城へと踏み込むわけだ。ここからは私を彼と呼ぼう。何故って、もう殆どのことを覚えていないし、それはあの城を訪れた全ての人についてそうだからだ。そしてそれで問題がないのだ。

彼はまず手にしたレンガを、門扉からすぐにある小さな庭に自由に置いた。そこには既に幾つものレンガが置いてあった。全てのレンガが置かれたままにそこにあるのか、それとも古いものの幾つかは城のどこかへ回されたのか、残されたレンガの配置や容貌からは推測できそうになかった。それにあまり一つ一つを見つめてはいけないような気がして、彼はそそくさと庭を過ぎ、城そのもののドアを開けて中へ入った。

城の中には、基本的には何も無かったか、または彼の記憶に残らなかった。確信という一枚絵が彼の記憶と規則を占拠しており、そのパターンに合致する情景以外の殆どのものは省略された。なのでこのとても大きな城を、彼は最後の一瞬を除いて、無限の階段としてしか記憶しなかったわけだ。

というも、城は雲を抜けるほどの大樹となっており、雲を超えた先の構造は誰にも分からないほどだった。そしてあまりにも奔放な空への広がりを連ねていたのは、外殻としてはレンガであり、内容としては階段だった。そうする以外になかったのであるが、自らに宿る確信のみを見つめながら、彼はこの階段をひとつひとつ進んでいった。

階段は城の構造を引き受けたように複雑だった。あちらこちらへ折れ曲がり、階段でありながら右へ左へ、昇りであるのにも関わらず降りたりしていた。時間を掛ければ掛けるほど時間は後退していくようで、もし彼の記憶がオープンな状態であったなら、昇る分だけ小さくなっていたかもしれない。だがそんなことは誰も覚えておらず、よって次の出来事の無意味さは誰にも表現できはしない。

階段には落書きがよくしてあった。時には文字が刻まれてもいた。そこには本文と注釈のような関係も見てとれた。しかしながら内容は統一されていた、というより一貫していた。この段は下の段の上の段であること、または、この段は上の段の下の段であること、などなど、ではなく本当にその二つのことのみが幾十もの言語で幾重にも言明されていた。それらの文字列は明るいうちは読めたが暗くなると読めなくなったこともまた誰も覚えてはいない。

もしかすると、階段を昇ったものの記憶がないのは、この呪文のような文字列のせいかもしれない。この段がまたこの段であり続けることの繰り返しは身体に感じられているのに、その感覚をまた塗りつぶすように言葉を繰り返し充てがわれてしまったら、記憶が絶対零度に達するのも無理はない。一体こんなことの本質を誰が明晰に理解できるというのだろう。私もまた失敗し続けていると言うのに。

私は階段を昇る彼らを哀れに思い始めた。階段を昇るほどに空気が薄くなるようで、終わりに近づく頃には視界はボヤけ、目に映るものの意味合いを汲み取れずにただ脚を機械的に動かしていた。つまり実際的には城に入ってから事態は何の変化もなかった。城に入る前についてはどうかまだ分からない。

しかし階段は終わる。城の頂上に着いたのかは不明だが、階段は階段として終わりうる。よって少なくとも階段は終わり恐らくはそこにあった扉を開いて、一つの部屋としか呼びえない空間に彼は入っていく以外にあり得なかった。

その部屋には多分、窓が一つあって、そこから雲上の風景が見渡せた。つまり窓を開ければ、空の青と雲の白と、地平線のような一線だけを仰ぐことができた。もう、城が地上のどこに立っているのかも分からなかった。部屋の空気は既に水中のように薄く、溺れる魚のように息を詰まらせていた彼は、部屋を見渡す余裕もなく窓に縋りついて開け放ち、目を閉じて大きく息を吸い込んだ。もちろん部屋と同じように薄い空気を肺に一杯溜め込んだ彼は、深い安堵の後に大きくゆっくりと、

 「 救われました 」

と言った。ので、

 「 そうでしょう 」

と部屋の主人は応えた。

このやりとりは完全に遂行された。その後の経過もまた同様だった。彼は徒労と空気と従属のようなものに満足して、立ち上がって振り返り、部屋をまた後にした。閉じられる扉の向こうでチャリンと、窓から金貨が投げ込まれたような、そんな音がしたのを聴いた。しかし、バタンとした響きが余韻を掻き消し、彼は金貨の音もまた忘れた。事態は完全に遂行され、一つの構造はこうして再び完結した。もしかすると一つのレンガと一枚の金貨分、城はまた大きくなったかもしれない。

昇る階段は今度は一直線に彼を地上へ降ろした。それとも、降りる者の目には階段の文字列が入らないから、階段の歪曲を認識できなかったのかもしれない。またはそもそも階段は真っ直ぐだったのかもしれない。階段の文字列こそが時空を歪曲していたのかもしれない。または城の姿は本当は、人間の昇り降りで回る、時空と文字のミキサーであるかもしれない。

とかく彼は真っ直ぐ家に帰った。自分の置いたレンガがまだ庭にあるのかも確かめず、真っ直ぐに家に帰った。そうして同じ街の同じ書斎で彼は満足そうに座り、柔らかいバターをごくりごくりと呑み干しながら、自分の確信が果たされたことに納得しつつ、全てを忘れるために座ったまま眠りに就いた。






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