ありきたりの悲しみ



3月、この頃になるとまた世界が変わる
正直に言えば気分状態ががらっと変わる

それまでの、11月から3月の中旬とか、とかく秋が終わる頃から春が始まる頃まで、私の気分と世界観は黒や灰に染められている。というか死を背景や前提として生きている。目の前のものの向こう側に終わりと死を見透かしている。まじありきたり。ありきたりにありきたりな言い方をすれば季節性情動障害、季節性鬱とか何とか、でも呼び方を知ったところでどうしようもないし、一方でどんなふうに生活習慣を整えても回避できないこの灰や黒、マジでどうにかしたいどうすればいいのか、なんて発想さえも灰に埋もれている11月から3月。

腸内環境を整えまくっても微妙。肌の保湿を徹底しても微妙。いわゆるストレスを低減させても微妙。何しても微妙。ただ自分の体は冬の訪れを察知し眠りに傾いていく。起きていることが有罪のような気になってくるし、起き続けていることの罰が体や心に現れ始めてくる。

自分(の気分状態)を維持するために当たり前のようにしていたことを自然としなくなる。お風呂にも入るし体はいつも清潔だし、何なら側から見れば生産性だって落ちてはいないしクールにスマートだけれども笑、でもやっぱり大事なことをスキップしていることさえも忘れてスキップしていたということを春の始まりに漸く思い出す。そして、秋の始まりから春の始まりまで、そう特に冬の記憶が無い、あるんだけれどもその期間そのものがモヤに包まれているような不思議な感覚がある。

いやあるよ、あるんだけれども何というか、その時の鬱蒼さや、時に訪れる雷のような感動とその後の奈落のような虚無のそれぞれに、自分事のようにアクセスができない。もう他人のように忘れている、忘れ始めている。大きな新陳代謝が回ってしまっていて、一つ前の自分はもうゴミとして有効活用されてしまっている。それとしては記憶を尋ねることができない。

悲しいのはここじゃない

3月、この頃になると世界が変わる。まさに春風が吹き桜咲く。春の狂気は冬のそれとまた違い、自分を自分こそがどこかへ運んでいくという確信を感じさせてくれる。冬の狂気は自分はここで朽ちるのだからここで何かを遺そうという気分にさせる。悲しいのは、春の狂気は夏の繁栄に移り変わり、それが秋の収穫へ、そしてまた冬の狂気へと転がっていくこと、絶対にそのことに逆らえないこと、を知りながら今の気分を味わって生きていなければならないこと。それが悲しい。どうせまたあそこに落ちていくことを知りながらここで飛び始めるのがとても悲しい。いや嬉しいんだけど悲しいの。シンプルなことを言い忘れたんだけど冬の狂気ってただ辛いんだよ。

食事、運動、睡眠、入浴、交流、どれをどうやっても、そもそもの自分の機能や性能、気質や器質のレベルが決定していること。冬には眠らなければならないこと、それに備えて秋までを醒めて生きること、例え冬の眠りを、冬の眠りへの恐れを忘れることができずとも、秋までを醒めて生き続けること。

春の芽吹きの喜びを感じながら、夏の日差しに喉を鳴らしながら、秋の実りに満たされながら、すぐそこにある冬の眠りを思い出しながら、今を生きることの全体がどうしてか悲しい。どれか一つだけを選んではいけないのかな。全体を認知する必要なんてあったのかな。

纏まりも意思も技巧もないゴミのような文章

でもまあ春になるとね

何をどうやっても上手くいくのよ

さようなら冬 また会いませう

ああ全部破り捨てたい


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