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yin yang codecode 自己補足



 捕捉


 まず持って自分は、個人の心理的なカタルシスや肉体上の改変、家族や部族や社会を含む全体的状況の解決、解体や解消、より全般的にはトランスやトランスフォーメーション、ミューテーションといった力動の為にしかエネルギーを行使することが出来ず、一方でそのような可能性も危険性も無いような行動言動は、殆ど取ることが出来ないのだということを、改めて痛感した。

 そしてこれはとてもクラシックな陰と陽の事柄であるということを理解し体得した。陽とはまさに陽の下の意識的建設と努力及びその産物を指しており、codecode で言えば code。陰とはまさに陽の陰という実は母であるところの、夜や闇から行われる、探求であり探索に追求であり、無意識という意味での意識全体への、結果的な解体や解消の作用であると言っていい。codecode で言えば decode。夜のピラミッドに忍び込んでスイッチを押すのだと思う。単に押す迄の事であるなら神話原型に於ける純朴なるトリックスターだ。

 陰陽が陰陽であり陽陰でないことが時たま気になっていたが、多分、陰は(ぶっちゃけ我が子たる)陽を結構気に掛けていて、その再生と新たなる建設の開始を眼差し、手を添えるように触れている。

 このような意味で陽を志向する陰であろうとする者供は、多分元々少数派であり更に少なくなってきている。それは、私達を押しなべて”教育”するシステムが、「極めて優れた擬似陽」であるからだ。その非純粋陽性に言及するはさておき、この世に於いて陰陽であろうとする陰者、太陽から産み直し、地平と営みを新生しようとする陰の者、陰からの者である陰陽者は、いつも二つのことに気を付けなくてはならない。

 第一に、単純に少数派でありそのこと自体はかなり昔から変わらないので、根深い(ながらも表層的である)疏外や敵対に気を掛け、華麗に回避すること。その場に在りながら潜ってしまうのが丁度いい。海の深さにかえりたいと人はいつもおもっているので、深度をずらしたお前のところへ、意識を揺らして引き摺り込まれたり、自分で片足を浸したりしてくる。その瞬間にお前は思わぬところの癒しとはなっている。

 第二に、これもやはり少数派で(は)あることに由来して、自分のおもうエネルギーの行使を進行している道中、自分の気が付かぬ間に認識や行動が薄められたり、歪められたりしてしまうことがままあるので、そのような意識上基底であるトレンドに、鋭敏かつ自覚的であり、都度都度又は時宜に応じて修正すること。

 その他、場に臨在し他者の目を覗き込めば、むしろ自分の位置付けと系全体に由来する期待は分かる。その時とその先に不都合や一見した不整合が発生しようと、この tension 張りを保ったまま進み進んで行くのであれば、あらゆるズレとトランスは解体と再生のフィナーレの為の、見えない資材となって不可視領域に累積されようと思う。そういうものには重さはないが手触りはあるので、折に触れて触れて、自己確信を失わず在ること。まず持って在ること。

















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