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Monolith-making, Purely-motion, Tribe-driving ( surely-modified )








preface


最近の自分、今現在の自分が意識的に何をしているのか、意識的にしていることは何なのか、むしろどうしたいのか、どうするべきと思っているのか、ということを漠然と想ったり考えたりすることがある。その度に幾つかの文字列が頭に浮かんではそれを実践に資するパラダイムとして措定し、その下で確かにそんな風なことを中長期間、具体的な実践として繰り返すことがある。

例えば今までに採用し念頭に置いていたものとして、

・国語算数理科社会体育工作美術(その他そういう時間割)
・Vital Boxing Processing Communion
・DIVESEXBOXCODE

等がある。そしてそれらは何らかの理由、主にはその下での実践行動によって自分や自分を取り巻く環境が推移したり、自分と自分を取り巻く環境との関係性が推移したりすることによって変更を迫られ、その切迫感を感知した私は「どうしようか、どうしたいか」を思いそして考え始め、暫くすると新しい文字列群によって構成された広範強固なパラダイムが降ってくる。

ということでこの記事ではここ最近以降の私が採用することになる新たなパラダイムについてさらっと詳述したいと思う。そして appendix としてもう少し先の私が採用し、その下でまた実践と変異を熟していくことになる更に新しいパラダイムを先行提示しておきたいと思う。

ということでまずは次、表題として挙げた三項の最初


Monolith-making / 情報


これは一文で表現するのであれば、

・total mapping and complete manipulation

となる。何らかの知的産物(以下、系)や能力そのもの(以下、能(能が系を産む))や記憶そのもの(以下、憶(系と能は憶に含まれる))を自分という内側に完全に構築・再構成し、その様態と機能を完璧に掌握し任意に使用、使役することを意味する。何かしらの強度ある作品を作り出す/作り上げる、という意味では先ず持ってない。それ以前に先ず、何らかの偉大な系や一般的な能そして普遍的な憶を身に収め、身の中で回し、任意の様態として身の外に出すということを意味する。

私の場合の最も具体的なレベルを例として挙げる。しかしながらそれらが系なのか能なのか憶なのかは明記しない。何故なら出来ないからだ。唯一可能なのは一律で憶と明記することだと思う。系・能・憶と分けた時には自信満々なカテゴライズだったのにこれはどういうことだろう。というのも簡単だ。系も能も憶に含まれているという包含関係がありながら、そして私達は系も能も気を抜くと憶として眺めることしか出来ないからだ。ちなみに憶とは、内側の奥深くにある淡く生暖かい空間、という原義を持つと聞いたことがある。三木成夫の著作だったと思う。さて、

・私は谷川俊太郎の幾つかの詩集を完全に暗唱する。(その内の一つは W.I.エリオットによる英訳の『 二十億光年の孤独 』で、私の認知の機能と感触はこの完全暗唱に多大な影響を受けている。また、完全暗唱とは内蔵作品単位や行単位で逆から暗唱したり、通し番号からの指定で任意に暗唱することを意味している。)

・私は Edward Gorey による絵画物語の幾つかを完全に暗唱する。(現状としては The Tuning Fork, The Doubtful Guest, The Wuggly Ump, The Sinking Spell, The Gashlycrumb Tinies の五作のみ。全部で百作はあるので道は長いが楽しい道のりである。)

・私はカタカムナウタヒを40首までは完全暗唱できる状態にある。この先はここから数ヶ月で練り込んでいく予定である。他に、

・私はかなり暗算する
・私はかなり瞬間記憶する
・私は街と自然というものへの一般的な認知を形成している(大体何処に何が在ってどちらに流れていくのかが分かる)

更に加えてこの他にも私は Monolith-making してきたはずで、それは例えば、

・学校という環境に居た際に採用されていた教科書と呼ばれる書物の幾つか
・ボーイスカウティングにおいて必要とされたロープワークや結果的な作品群の構成図案
・幾つかの料理、そのレシピとセンス

というように列挙することはできようが、やはり Monolith-making と言えるような傑作、偉大な系ないし一般的な能または普遍的な憶としては最初に挙げた二者による幾つかの作品とカタカムナウタヒ前半部となる。ここで蛇足として繰り返すが、Monolith-making は先ず持って系能憶(=憶)を完全に掌握していくプロセスを指し、つまり既存の Monolith を身の内に打ち立てる、再構成、再構築することを意味する。なので make は基本的に remake である。ここで一つのシンプル過ぎる質問をしたいのだが、貴方は今までに幾つの Monolith を remake してきたか。何度も何個もの Monolith を見てきた、通過してきた筈だ。それはあなたの内側、あなたという内側に今も残っているか?そうでないなら何を見たというのか。

私は多くのテキストや作品一般に触れながらかなり昔に、そのような驚愕をしたことを今でも覚えている。暗唱できないなら、読んだっていうのかな。もう一度思い描けないのなら、それは見たって言うのかな。そもそもどうしてイメージとして、いつでもどんなものでも頭の中に抱くことが、意外とそんなに出来ないんだろう。出来てもいいってのに。ということで出来るようになりたかったのでそういうことをやり始めた。その端緒かつ本質が暗唱であったと今思っている。

ちなみに、先に「私の場合の最も具体的なレベル」として幾つかの作品等を列挙したが、それ以前のより抽象的なレベルに於ける Monolith-making の対象は以下のようになる。

◯ ラングス:言語
◯ アルゴス:論理
◯ メモリス:記憶
◯ アナトミ:肉体
◯ ジメトリ:惑星

更にそれぞれに対して具体へと階梯を下っていくのであれば以下のようになる。

凡例)

◯ 大抽象 Monolith:概要
(→中抽象 Monolith )←小具体 monolith
(但しここのカテゴライジング、観念構造化にも無理がある。おしりの ◯ は進捗良好のもの。△ はかなり未着手、□ は不満足なレベルで停止中。)

◯ ラングス:言語
→カタカムナ←カタカムナウタヒ ◯
→大和日本語←自作詩寓話散文 ◯
→English←English, 英詩英物語 ◯
→Kotolin←自作apps: eqo, address, let, current △

◯ アルゴス:論理
→アルゴリズム □
←ルービックキューブ △
←あやとり △

◯ メモリス:記憶
←数字羅列の瞬間記憶 □
←暗算 □
←BrainNbacks △

◯ アナトミ:肉体
←学識解剖学 □
←生体解剖 □
←自分の/という身体 □

◯ ジメトリ:惑星
←地理、地政、地勢 □
←街 ◯ □
←自然 ◯ □ △

やはりカテゴライジング、観念構造や観念構造化に無理はあったと思う。それは記憶そのものに筆先を置くことに無理があるからだと思う。そこでは何ものも渾然一体となっているので、その水面にお絵描きかお習字をしようとしても、全てが一筆書きで終わってしまうし、線を引いた傍から線は解けて波となって後に被ってくる。そのような無理なき無理を、このような事柄を書こうとする時にいつも感じる。水を囲うことはできないって訳だ。

さておき皆さん Monolith-making しましょう。make は先ず持って remake です。っていうか色々ごちゃごちゃ言ったけど完全掌握情報体を自分の記憶領域に保持構成するってことね。それらを運用して新規作成してもいいよねってことでもある。でもやっぱ make の前に remake になる、remake になってるだろうなと思うよ。

更に最後に Monolith-remake の重要性を消極面から言及しておきますと、Monolith-remake もせずに Monolith に接近したままですと、Monolith に使役されます、Monolith に喰われます。Monolith との正しい触れ合い方は、こちらから飲み込んでしまうということでありました。Monolith には呑み込まれることなく呑み込んでおくというスタイルやセンスを獲得した時、あなたは本当に多くの人が Monolith に喰われて使われていることに気が付くだろう。Monolith はぶっちゃけかなり Langage や Consciousness と重なる。さておきそれではこの項以上です。


Purely-motion / 動物


あらゆる動作や行動を、

《 流体を漕ぐ、打つ、泳いで渡る 》

という原初感覚に統合していく。そしてこの原初感覚の行使として運動していく。つまり動物としての運動機能を常に total に発揮していく。その方が無理もないし楽しく効率的であることを身体で知っていく。

先の言明に於いて、「漕ぐ、打つ、泳いで渡る」という動詞部については現状としても完全に納得しているのであるが、その対象となる場についての記述に関しては、ただ「流体」としていいのか、それとも「(二つの流体の)境界面」とするべきなのか、まだ納得と実感が及び切ってはいない。ただ、カヌーをしたりボクシングをしたりランニングはたまたそれこそスイミングをして Purely-motion を継続していけば、言語表現としてどのようなものが無理なく完全であるのか、そして言語表現として認識を経由して認知と運動に好ましい影響を齎してくれるのか、自ずと明らかになっていくように思う。

《 流体を漕ぎ、打ち、境界面を滑って行く 》

何にせよ、流体と境界という言葉、その発想における根源的不整合、というより相互若干浸透のような言語前特性を引き継いだ言語現象が、”このこと”に関する言語不整理を導いているのだと思う。私としては、知性博愛ある完全魚類か無頭の新人類として自身の旅路を完遂、完全に純粋運動できればそれでいいので、当座この点に関する言語表現に固執はしない。

そして本来の旅路完遂のために、私は至極具体的に、カナディアンカヌーくらいのクラシックな、精巧かつ寛容な作りの小舟で、海でも川でも湖でも、他者と一緒に漕ぎ渡り、漂流や漂着もしながら目的地へ到達するということを、定期的にしたいのである。そのためにも私は、妥協無い完成品としてのカナディアンカヌーを、見つけそして余裕ある財政の下で購買するか、何ならその船に共に乗り込むであろう親しき人々と、ゼロかイチから自作してしまいたいと思っている。

さておき Purely-motion は別のレベルで表現すれば純粋運動、完全運動である。しかしやっぱり流体感覚が致命的に必要となると思う。こういった運動体験はボクシングやスイミング、ランニングやパドリング一般で得られることだろう。体感が深まれば歩行によっても随時実現できると思われる。私の場合は頻度としてランニングとウォーキング、そしてスイミングを、強度としてはボクシングで、そして根本として定期的にパドリングして行きたいと思う。


Tribe-driving / 社会


key word は bond, sex, energy, information となる。つまり、相互既知である関係性としての bond の連なり繋がり重なりを中核とした人的ネットワークが、主にはその内部で、そして時宜に応じてその外部と sex, energy, information を贈与交換収奪していくとして、そのような tribe に入ったり、そのような tribe から出たり、そのような tribe を作ったり、入ったり作ったりした tribe を大きくしたり小さくしたりするにはどうすればいいか、そしてその内外における贈与交換収奪にどの様に関与すればいいのか、達成すればいいのかということが、この項の概要であり主題である。

これはもう肌感覚で掴んでいくしかない、と言わざる負えないほど、

・これは社会的動物である人間にとって、その社会性の動態そのものでありながら
・私自身も非常に経験があるとは言えない

さておきパラダイムの一角に掲げて、体験として深化させつつ、知恵や技術として強化普遍化していく他ない。これもまたそれ自体が楽しいだろう。


postface


三項の各尾に何気なく、情報、動物、社会と付けたが、この真意として述べておきたいことがある。私達は《 情報性社会動物 》とも 《 社会性情報動物 》とも言える動物であるが、そのような本来的な種族名称を構成する三つの側面 aspect に対して、意識的な力を振り撒くことでそれとして発達していきましょう、そのような発達プロセスはそれとして楽しくそして、皆というものにとっても無理ない事態を全体長期として導く、育むと思われます。また先述した二通りの呼称からしても、私達は先ず持って動物であり、先ず持って動物という側面 the aspect を持ちますから、何よりも Purely-motion をパラダイム中第一の筆頭として深めていくことで、全体のあらましや働きに深みとボリュームを出していくことが自然であり強靭であると思っています。ですのでやはり、あなたは私と一緒にカナディアンカヌーを漕いで海を川を湖を泳いで渡る必要がありながらその運命にあります。絶対に深くから楽しく、無理なく自然であり、沢山のことを思い出しながら再統合されると思います。より高く、より深く、より広く、疾く疾く。


appendix


preface で示した通り、ここでは次なる私のパラダイムを先行掲示しておきたいと思う。

・事務:具体的にスルスルカクカク未来を画する
・継続:日々是スルヲスルしてスルスルが楽しい
・経済:ナガス、ナガレヲナガス、結節呼吸、energy orchestration
・政治:トム、ナガレヲトドメル、トドマリにトドメ刺す
・芸術:ナガレの奥底や向こう側にあるナニカを汲み取り、ナガレに乗せたり還したりする

つまり後三者につき、政治的に条件を達成しながら、かつ政治的な障害を整理しながら、芸術を経済に乗せていく、ことでナガレを大きく豊かにして行き人間に還元していく、そのために何より日々是毎日、事務し継続、事務を継続する Mr. Jim であること。つまり何よりも先ず持って事務と継続、事務継続、継続事務、そしてそこからの中核は経済ケイザイケーザイなのでしょう。地盤を自歩して中核 energy orchestra しましょうね。



おわり
はいなられっつごー
楽しいね



at the last


stream-swim
energy-orchestration

段階を踏みながら、階梯を昇り降りしながら、流れを起こして流されながら、最後のパラダイムはこれになるだろう。これだけをしながら微笑んで死にたい。それが幸福の胸中であれ闘争の道中であれ。













ae