情動過密空間に対する覚書



関するというより対するための覚書

対立せずに相対し

その流れに融和し

許される限りの支配と実現をするため



書くことによって救わねばならない

描くことによって掬わねばならない



私にこれを書かせるパラダイムはいつもながらに素朴で強力なもので、それは《運動・感覚・感情・思考》という、人間というものに生起する根本的諸事象のそれぞれに言葉を当てがって並べ立てたようなものだ。これは M.フェルデンクライスが言っていた。私としては感情から思考に至るまでの間にもう少しメスを入れてもいいのではないかと思うが、殊、実践の機会と場においてはこれくらいシンプルでミニマム、コンパクトなパラダイムの方が最終的に功を奏するだろう。

さて、私たち動物はまず持って《運動し感覚している》。ここで自らの《運動》も結局は《感覚》されるので、よって私たちは《運動しつつ自他の運動を感覚し》、それらに《感情》による評価・重み付けを行う形で即時的 / 一次的に記憶を成し、その記憶情報を言語というある種の外部装置と擦り合わせる形で修正加工するという《思考プロセス》を経ることで再起的 / 二次的に記憶を為している。

前段落から要点を抽出すれば、私達は即時的に成った記憶を、再起的に為している。言語能力の高低が結果的な認知能力に影響する所以は、記憶に関する操作性こそがまず持って認知能力の根幹であることと、記憶を操作するとは先に抽出した要点における「記憶を再起的に為す」という部分にあたり、また前段落で述べた通り、記憶を再起的に為すために必要となる装置として言語があるからだ。繰り返すが、恐らくは記憶の中枢に対する、本来は周縁とも云えるある種の外部装置として。



さて、あらゆる article も何らかの paradigm と emotion が人に書かせるものであるとして、私は私にこの記事を書かせる paradigm を記述し終えた。《運動・感覚・感情・思考》を掲げ、その内部における一般的な連関と流れをある程度記述し終えた。次には article そのものに移りたいと思う。emotion については随時ダラダラと垂れ流されるか溢れ出すかすると思う。



私は今もなお結局のところ、情動過密空間に身を置き、そこで独自元来の価値を発揮しようとしている。独自元来という言葉は聞いたことがない。そこに込められているニュアンスとしては、人間としての元来的な価値を発揮しようとするとどうしてか、どうしてか独自路線を採らざる負えなくなるし、結果的に良くも悪くも目立ってしまう、ということがあるかもしれない。とかく私は結局のところ情動過密空間に再び自らを位置付けて、私自身の役割を果たそうとしている。独自原来の価値を発揮しようとしている。

その場 〜 私という素を包含しつつ素としての私が影響を与え返す流動的環境としての場 〜 について、抽象的なレベルに於いて詳述しておこうと思う。そこには physical があり chemical があり image が横行、充溢し、そして ki や energy が知らぬ間に交換交流、そして人間が出逢っては失われていきつつも、失いを経て / 失いを通じて満足し、失い方を鏡として自らに納得していく人間の姿がある。舞台装置と脚本が慣習や慣行として根深く存在しつつあらゆる配役を拘束し窒息させる一方で、結局はハイパフォーマンスとは慣習慣行含む常識一般から逸脱すること、自体ではないにしても常識からの逸脱をその一部やニュアンスとして含むものなのであるから、主役級の位置付けを維持獲得するパフォーマーは、そうすることのできないというよりそうすることのないパフォーマーからの《負の感情》を受けながらも逸脱的な振る舞いを原資にしてハイパフォーマンスを発揮している。

そして、私が新たに身を置き始めた場の性質の次に、私がこの記事で言及したかった事柄とは、場においてハイパフォーマンスを実現する個人とそうでない個人、それができないというよりそうすることのなさそうな個人との違いについてであり、この時点で更に言及しておくならば、そのような諸個人のパフォーマンスの高低を分ける要衝としての《感情》という出来事(?位相?機能?側面?)についてである。この時点で簡単な結論まで言って仕舞えば、ハイパフォーマーはまず持って純粋に《感覚して運動し》、その上で(その後に)《感情に捕らわれずに感情を使役している》のであって、言うなれば《感情に関する精緻精密精妙なカウンターパンチャー》としてリングに在り、一方でハイパフォーマンスすることのない個人は《運動と感覚と感情》がない混ぜになっていて、怒りや興奮に駆られて力んだまま目を瞑ってパンチを繰り出しカウンターでKOされる何ちゃってインファイターのようなものである。もちろんのこと両者は《思考》についても大きな差異がある、というより機能上の差異は高次機能へと進んで行く程に大きくなっていくもので、ハイパフォーマーは自分の《感情の使役》が《感情抜き》にどのようなものであったと評価するために《思考》し、というよりその評価プロセスこそを《思考》とし、一方でローパフォーマーにおいてはやはり《運動から思考まで》もがない混ぜになっていて、ハイパフォーマーのような純粋思考をすることもなければ知ることもない。というよりローパフォーマーとは、機能を純粋に使用することをしなければ知ることもない個体を指しているように思う。エンジンからハンドルに至るまでがドロリトロトロと溶け合って癒着してしまっている車のようなものだ。当然であるがそのような車は走ることなどできず、動くことすらできない。そして状況に対して適切に身動きできない分だけ《負の感情》が発現して機能全体を覆い、《運動と感覚》を曇らせることで《思考》を不可能にしていく。(一般論として私は、負の感情は「状況に対して適切に身動きできない」状態に由来し、正の感情は「状況に対して適切に身動きできた」という事実に対して生起するものであると思っている。ので、運動能力一般が低い個人は基本的に負の感情を溜め込み易いと判断している。極論だろうか?)



確認しておくが私は情動過密空間における《運動・感覚・感情・思考》という paragigm の内実を評価しているのであって、であるからして勿論のこと、論理過密空間(司法機関や会計事務所、コンサルティングファーム等)や物理過密空間(農林漁工の事業所やプロ競技施設等)における《運動・感覚・感情・思考》の具体的内実について記述しているのではない。これらの過密空間において当 paradigm はその全容自体は維持するものの、内実としての連関や関係性は異なったものとなるだろう。具体的には、論理過密空間に於いてはまず持って適切に《思考》することこそがパフォーマンスで在り、そのための具体的視点や支点として《運動と感覚》が在り、《感情》とはそれらを実現していくための背景的動因力、動機となるのだろう。そして物理過密空間に於いてはまず持って適切に《運動し感覚する》ことこそがパフォーマンスとなり、大体において絶え間ない反復を求められるその《運動と感覚》を支える動機として《感情》が使用され、そして《思考》についてはその《運動と感覚》というパフォーマンスに定常性か発展性のどちらが求められているかによって位置付けが変わると思われる。つまり、パフォーマンスに定常性が求められるのであれば適応後には《思考》は基本的に無要不存在となり、パフォーマンスに発展性、時に飛躍性が求められるのであれば《思考》はパフォーマンスを回顧反省する次元として絶対的に必要となる。情動過密空間に於いて《思考》はほぼその定義上必要であり、そこで《思考》を無要としてしまっている個体は非発展的物理過密空間として向き合ってしまっているに過ぎない。

ちなみに、情動について情動過密空間と表記した惰性により論理過密空間、物理過密空間と列記していったが、より素朴には情動空間、論理空間、物理空間と表記されてもよく、またそもそも paradigm 内の表現に準じて《感情志向空間》、《論理志向空間》、《運動感覚志向空間》と表記されてもよかったと思われる。つまりこの時点で並列して記述された三つの空間はそれぞれに、元々の paradigm のどの要素を志向しているか、そのために他の要素を動機や動因、背景としているか、の違いとして表現されているに過ぎない。それで言うと貴方が所属している幾つかの場、環境はどれに当たっているだろうか?



話を、今現在私が所属している《感情志向空間、以下情動過密空間》に戻そうと思う。そして記述の力点を、そこで私が何をどうするのかという事に置き直そうと思う。

私はここで素朴で強力であることを保証する。私が私に保証する。私は素朴で強力であり、目前の他者に声を掛け、気に掛け、問い掛け、ある次元で触れ、触れ合い、何よりもしたいことをさせてやる。そのために直視傾聴、応答言及し、致命的なタイミングに必要な範囲で包容、その後には拒絶する。癒着は死であり新たな包容が必要な時にそれをさせないのだから、合理的な要請に従って必要として拒絶する。基本線として包容しながら包含は避けるようにする。何故なら安定して強力な他者として隣在し続けることこそが肝要であり、それ以上の介入や侵襲は誰にとっての幸福にも改善にもならないからだ。しかし意識無意識の全体によって不幸そして死を念慮している人間に対しては当意即妙な死を迅速に与えたいと思う。何分不遜な宣言であること承知はしているが、それが結局はその人とその人の周囲にある全ての人々の何気ない安楽に繋がる訳であるし、しかも誰しもが本当は求めていた業 karman の清算となるのであるから。

こういった一つのプロセスを経て、《情動過密空間》における独自元来的価値発揮から改めて始め、私は私と社会というものにやはり改めて、納得と満足をしたいと思っています。











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