文字に関する愚者覚書




この記事のダイジェスト

心 音 意 憶 のどのレベルを起点にして意識上の共同幻想を打ち立てているかは 言語によって異なる 心は無意識と呼ばれるような共同幻想というより共同そのものであることはさておき そして憶そのものを意識上の共同幻想の起点とすることは(相互)自己同一視でしかないことはさておき 言語としての緩やかな起点選択は音か意として行われその様に文字というものが形成される訳だが 私個人としては音を起点として編まれた共同幻想の方が居心地がよく感じられ 巷に謂われる個人というのもそちらの情報世界に於いての方が発生しやすいのかと思われる

この記事でこの先に私が何を何と言おうと、全ての事柄について結局は各人の意志 will や方向性 orientation が大事大切であることもさておいて







表意文字は人間を共同幻想に対する奴隷にする 感情や倫理を抜いた neutral な表現をすれば 表意文字はまさに憑依し 使用する人間を緩やかに纏められた共同幻想に縛り付ける いやそんなことはどんな文字も言語もするのだが それを具体領域 情報空間下方へ自然に収束させるような重力が働いている感がある つまりそのような語圏である事自体に同調圧力の強さがある 具体物や具体的な物事を特定の角度から眺めた風景をそこにカチリと嵌め込んでいるのだから当たり前だ このような文字とその使用は人に人と同じ地平と角度から物事を眺めさせようとする 平地に降り立ち定住した人々のヒエラルキーの中で醸成された幾千幾万もの真珠のネックレスなのだこれは

例えば英語 英語に触れた時からその第一義的な表音性音楽性 そして上方に向かって開かれているような運動性が好きだった 勿論 特定の言語の使用者が情報空間に於いてどちらへの運動を主とするかは個人差に由るが 言語そしてそれ以前の文字に宿る方向性 情報空間に於ける運動としての方向性はやはり厳然として存在するようで 漢字を極地とした表意文字に対しどうも下方具体具現に縛り付けられるような圧迫感を抱いてきた 一々が特定の視点からの指差し確認となるような ことはないにしてもそのようになり得るレイヤーを通過しなければならぬことへの拭えぬ感覚 と その中途プロセスに対する強烈な違和感を抱いてきた 元々の 漂う音楽を口ずさめばいいのにと想ってきた

自分のものでない感覚があったのだ
今のこれもそれで書いている

文字が音楽の邪魔をしている
漢字等表意文字は音楽に被ってくる

例えば 異郷由来の一例でしかないのだが 英語は文字自体の音楽性が高いというより象形性が低い というより文字自体の象形具合が非常に緩やかであり抽象的で 文字自体が情報空間上方に "掛けられている" そしてこの記事に託す愚者による覚書の核心となるのだが 大きな大陸のこちら側にも純粋な表音システムとしての文字 表音システムとしての言語 表音システムとしての意味記憶 心して聞いた音の味わいを記すシステムがあったようで それをそれとして仕入れた私の情報的自由度は上がりつつあるような感覚がある

名前も来歴ヒストリーもどうでもいいのだがそれはカタカムナと呼ばれている 物事を眺めるに際する altitude と angle そして timing が事実として揃うこともなかったし規範や倫理として揃える必要も切迫もなかったトキトコロのヒトビトのコトバを越えてココロとしてそれはあったらしい 今このページに 書く者にとっても読む者にとっても過負荷の無いようにそれを書き落とすことができない 情報端末の機能としてタイプできないしそもそも貴方はそれにまだ触れておらず 殆どの人が触れてもいないことに由来する忌避感がそこに確実にある

途中から叫びたかったがこの記事は英語の優位性だとかを主張するための記事では決してない 私は英語も英文学も好きで翻訳で読むのも原著で読むのも好き 特にヘミングウェイとサリンジャーは彼らの心象を代表して味わうことが出来る さておきカタカムナ コレハマアカンショクトシテハイマノカタカナ二チカイ カタカムナカラムガキエテカタカナトナッタヨウニ 意味上の奥行きや広がりがそこから消えてしまっているとしてもやはりカタカムナはカタカナにチカイ あを安から取ってきたようにひらがなは確かに漢字から写し取ったのだろうが カタカナはカタカムナが萎縮して出来上がった表形文字であるように感じる 表音と表意の間としてある表音から生まれた表形のような 表形文字なんてものは流れを知らせるための無かクラックでしかない

そして照射口としての照射地点に光を照射し直すことは難しいというより光の機能としてバグ感が伴うのはいつものこと 話を一度自由の領域に広げ直してもいいですか

ハジマリ
vibration オコリ
ウツシ sensation オコリ
ウツシ sound-echo オコリ
ウツシ image オコリ
ウツシ figure オサマリ ウズキ
カラミカラマレ lang オワリ?

井筒はこの何処にまで降り立って上を眺めたというのか 栄養失調ウィトゲンシュタインは何処の地平の煉瓦回廊で路頭に迷ったのか ソシュール貴方は何処まで行って俯向いたままなのですか そしてカントからハイデガー 言語と社会という含み含まれる現象を惰性混同したまま探求を進め窒息した愚か者 貴様らはそっちのわざわざ漢字に喰われたのだ ニーチェバタイユお前らは そこが何処でもいいがそこに閉じ込められたままのたうち回っていろ それがしたいのならそれをしていろ誰も邪魔はしないお前がむしろ循環や円環 運動の全体の邪魔なのだ 消えろ愚かめ とでも言うしか出来なさそうな数多の禅僧共はこのような全体の図像あらましを示されただけの木偶 大体はまだ視覚的動物に過ぎず 音楽と運動の本来的 sense を取り戻した訳でもない そこに座って植物を気取っていろよ 盆栽のような庭の外で大木が笑っているぞ

私を覗くようにしてこれを読んでいる貴方はこの地点 起こり 興りの地点まで決して降りてくることはない でもそんなくそどうでもいいこととは別にカタカムナ そのモジオトヒビキ ウタハアナタノセンストイマージュを回復させてくれるカタカムナをインストールすることは有益だ それはプログラマーがアセンブリを学んでみることの有益と完全に重なる マシーンというボディに起こっていることの実際の感触を想起して表記にそれを重ね合わせていく ような それ自体が言語習得 言語による全体の賦活プロセスとなるような

ちなみにカタカムナにせよ何にせよ

① システム
② ヒョウゲン
③ ヒストリー
④ カンソウ

といった幾つかの情報が群として臨在することになる カタカムナについてであれ何についてであれ その核心を語る情報群は①と②でありカタカムナの場合それは

① モジ、思念対応表
② ウタ、カタカムナヒビキ

ということになる 私は表記としての文字とその一々のイメージ対応を思念表によって押さえつつカタカムナヒビキ80句を写経し暗唱した 逆に言うとそれ以外の スピ系みたいな情報には触れていない オボエテウタッテヒビカセレバ湧いてくるものを事前にガチャガチャと飲み干しておく必要はない

すると

今迄ずっと私はこれをしてきた
そしてこの方が無理がなく自然だ

という感触を抱いた

勿論今現在の社会という物理情報的資源に囲まれている限りこの今現在の日本語を離脱するということはフィクションでしかない

しかしあらゆる派生言語の前か同時にアセンブリや機械言語を頭の中で回すのは基盤として強力に作用する

そして勿論 漢字を極地とする表意文字にも美しさそして何よりも強さがある それは地に根を張るとでも表現されるだろう しかしその地とは情報レベルの地 共同幻想だ 私は自分の根張りを実際の物理的なレベルで肉体によって行い 情報としての私には上方へ充然と華開き 結実してもらおうと思う








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