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トーベ・ヤンソンがムーミンだけじゃないのはわかっているけど、卒論も修論もムーミンになった話

※日本語がおかしいところを修正しました(2021/5/3)

トーベ・ヤンソンはムーミンの小説を書き、挿絵を描き、連載漫画を描き、舞台なども手掛けました。トーベ・ヤンソンといえばムーミンですが、絵画や壁画など画家としても活躍し(彼女は自分自身を画家と称しました)、ムーミン以外の小説も書いています。

私の研究は「トーベ・ヤンソンの研究」だったはずだけど、卒論も修論もムーミンじゃない…???唐突に自分で自分のことがわからなくなったので、経緯を整理してみたいと思います。

卒論も修論もムーミンだけど、ムーミンのことだけ考えていたわけではない!

以下に示す題目からわかる通り、卒論も修論もムーミンのことを書きました。私が対象としたのは、ムーミンの小説なので、ムーミンのなかでも一部です。

<卒論題目>
トーヴェ・ヤンソン研究:ムーミンシリーズの変遷
<修論題目>
理解・不理解の主題から読み解くヤンソン作品の変化:『ムーミン谷の仲間たち』を中心に
(大学院に入ってから、他の多くの本に合わせて「トーベ」の表記にしました)

とはいえ、題目には「ムーミンだけを見ているわけではないんです!」という意図が実は入っています。卒論でも修論でも「ムーミン」は副題にしていて、主題は「ヤンソン」にしています。内容も「ムーミンでは終わらないわよ!」というものなっています。

ムーミンにとどまっているといえども、卒論から修論にかけては、少しに進んでいます。卒論はムーミンの1~6作目を中心に扱っていました。そして修論ではムーミンの6作目以降のムーミンおよびムーミン以降のヤンソンの小説に共通する主題を分析しました。その主題が、自分自身あるいは他者に対する「理解・不理解」です。

↓卒論&修論の詳細はこちら

ムーミンをきちんと読まなければ、私は先に進めない!!

この、「理解・不理解」を見つけるまでに時間がかかりました。また、ムーミンの小説の最後の三作、『ムーミン谷の仲間たち』『ムーミンパパ海へいく』『ムーミン谷の十一月』では登場人物が自分自身のことや他者との関係に悩みます。みんなの悩みは、登場人物によっても作品によってもさまざまで、中心とした短編集『ムーミン谷の仲間たち』の作品をひとつひとつ細かく整理することも簡単ではありませんでした。

大学院では、ムーミン以降の小説の分析にも踏み込んでみたのですが(短編「人形の家」など)、試行錯誤の後の結果、ムーミン以外のヤンソンの作品を修論で扱いませんでした。ムーミンの小説の先にムーミン以降の小説があるととらえているので、ムーミンをきちんと論じなければ、その先の考察もきちんとできないだろうと考えてのことです

タイムリミットに間に合うよう、広げすぎて中途半端なものにするのではなく、限られた範囲でも丁寧に論じることを大事にしました

ヤンソンの他の作品も考えつつ、これからもムーミンと向き合う!!!

前にも書いたと思いますが、「理解・不理解」の主題は、ムーミンとムーミン以後のヤンソンの小説では違うところがあります。ムーミンでは自分や他者を理解しなくともハッピーエンドになります。しかし、ムーミン以降の小説では自分や他者を理解できずに悩んだり、理解しないことが人間関係の不和や自己喪失につながります。

私が「理解・不理解」の主題を見つけ、論じたのは、ムーミンとムーミン以降を含めたヤンソンの文学作品の関連を考察するためでした。今はまだ修論の先の論には進められていないので、難しいですが少しずつでも進めて、どこかで形にしたいです。

修論では『ムーミン谷の仲間たち』を主に分析していますが、そのあとの2作である『ムーミンパパ海へいく』『ムーミン谷の十一月』を改めて読んでいると、修論で扱いきれなかった新しい発見があります。また、卒論・修論では作品の変化を中心に論じたのですが、他の見方をするとまた違う発見があり、やはり、ムーミンはこれからも向き合いたい対象です。

書いてみて、自分で自分のことがわかって安心しました。

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