季刊『末広』2024春號 あとがき
※二次創作
セブンイレブンマルチコピー
プリント番号【 53243252 】
(6月24日23:59まで)
著者近況
これを書き上げるまでは春だと思っていたので冷やし中華を禁じていたのですが、その間にざるそばとざるうどんとそうめんを喫してしまいました。どんなものにも穴があるようでまことにセクシーですね。
冷やし中華、はじめました。
書くにあたって――彼というインターフェース
彼ら七人は「キャラクター」として非常に特異です。それは属性の変てこさではなくむしろ、一人一人を内から支配する強固な設定に乏しいことにあります。彼らの属性は人間的自由そのものとある程度深くつながっており、行動の規則もなかなか見えにくい。ときにその特徴は「ダブスタ」とも表現されます。アニメのような明確な動きも見えないので、彼らの内面を読み取る材料となる「可視部分」は非常に狭く、行為のブラックボックス化が進みます。
ではなぜわれわれが彼らの内面をある程度知ったつもりになれているのかというと、インターフェースのおかげです。つまり、キャラクターの感情をわかりやすく変換して伝えてくれる第三者。それは誰だったかというと、それも他ならぬ彼ら七人でした。いや、六人というべきでしょうか?
彼らは生活のうちで、他の住人のことを自分の言葉で語りました。ツッコミだったり愚痴だったりと形式は様々ですが、それによってわれわれは「このキャラクターは○○だけど××なんだな」「△△っていうのはこういうことなのかな」という考えに至り、入り口で示された七つの大きな属性(ともすれば「ヤバい」の一言で終わらせられるもの)の裏側にずんずん踏み入っていったわけです。
しかしそのインターフェースには一つ難点がありました。それは彼らが「他人」を語ることによって成立していたこと。彼らはファーストシーズンが進行するにつれていくつかのイベントを経、互いをなんとなく知り、いつしか運命共同体のようなものになっていきます。するともう、わざわざよそよそしい言葉で語る必要はなくなるわけです。言わなくてもわかりきっていること、それでもぽろっとこぼれる一言、それが中心になっていきます。
セカンドシーズンではそうしたファーストシーズンでの熟成を踏まえて、極めて内部からの言葉によって彼らの生活が描かれました。内輪ノリとか暗黙の了解と呼べるものもその一つです。その代わり、外部からのまなざしはほとんどなくなったわけですから、インターフェースはほぼありません。(ファーストシーズンで既に示した内面を元にしているとはいえ)理解を補助するものがなくなったので、さらっと見ただけではわかりづらいところもあります。
※セカンドシーズンは連帯意識と内面の話、と書いていますが実際にはもう少し複雑です。表面上、また個々の気持ちにおいても「みーんな仲良し!」というのがほぼ事実なのですが、同時に彼らが「絶対的他者」であることも事実です。自分の気持ち上は仲間・友達・家族etcであったとしても、他者である以上完全に一つに融け合うことはできない。だから不意に「他人なんだ」という意識に襲われて、疑念と疎外感という高い壁を築いてしまうのです。思い返せばセカンドシーズンは連帯に対する裏切りの連続でした。でもそれは悪意によるものでは決してなく、愛すべき連帯と揺るがせない個人との不協和による苦しみです。楽しげで享楽的な連帯の裏には、どうしようもない冷や汗たらたらの迷いがある、その二面性がセカンドシーズンの醍醐味だと思っています。……という話はインターフェースのトピックとあまり関係がないので、ここらへんで。
※「いやセカンドシーズンはモノローグやナレーションがあるから内面開示あるじゃん」おっしゃる通りです。モノローグやナレーションを使わないと話が動かないくらいにはみんな会話にしてくれなくなりました。まったく困った仲良しさんたちです。
セカンドシーズンは彼らを彼ら以外――中神博士の視点からも描いていましたが、博士の視点は彼らの内面をずばり言い当てているとはいいがたく、むしろその逆、偏見や演繹といったパターナリスティック(エゴイスティック)な視点によるものでした。目的的、着せ替え人形遊びのようなこの視点は彼らの内面を逆照射するという点で役立ちましたが、インターフェースにはなりえませんでした。
ではもうインターフェースは出てこないのでしょうか。いいえ、これから現れるのです。それが虎姫というキャラクターでした。
虎姫は大瀬の絵が燃やされそうになるのを止めます。テラにみんなが心配していることを「はっきり」伝え、理解の努力とみんなを引き合わせました。他人の持つ視点と推進力。外部からの語り。インターフェースの役割を担っているといえます。
ただ、ファーストシーズン序盤の彼ら自身と違うところは、虎姫が切り込んでいくのはまったくの「無関係」ではなく「既に形成された連帯」であることです。複数の始点から複数の終点に向けて新鮮な矢印が飛び交ったファーストとは違い、始点は虎姫ただ一人です。終点は七つありますが、ファースト序盤と比べればはるかに整然としています。逆向きも考えられますがその場合は終点が一つになるのみで、状況のシンプルさは変わりません。
矢印が投げかけるのは「あなたはどんな人間ですか?」という至極普遍的、根源的な問いです。それを「ファースト、セカンドと自分自身と向き合ってきた彼らに」再度問うてみる。個々でしかなかったファースト、連帯を手にしたセカンド、その次はなんでしょう。
それを知るには虎姫の行く先にも思いを馳せなくてはなりません。彼の行き先は彼ら7人の今後のメタファーとも見ることができますから。
連帯から切り離され、雛鳥をかくまうように救い置かれた彼は、この先なにを選ぶのか。連帯に安住することを彼が本当に是とできるのか。もし万が一、できなかったら? 飛び立つことを選んだら? すると彼らの連帯も、そのままでいられるのでしょうか?
虎姫のまなざしはもちろん彼自身を逆照射します。「おまえはどんな人間なんだ?」と。現時点で彼自身について語れることは少なく、今後少しずつ紐解かれるものと思われます。虎姫というスポッターがいずれ七つのライトで照らされるとき、彼がどういった存在なのかはわかるはずです。逆をいえば、それまではわからないままでもいいと思います。
『末広』の創刊理由はこんなところです。昨年春から個人的にずっと難儀してきた「彼をどういう形で作品にするか」に(2期がほとんど終わったところで)やっと折り合いがついたので、やっと書けるぞ、というのが本音。
後述の通り好きにやるつもりなのでいつまで続くかはわかりませんが、まあそれは他の二次創作もなべてそんなものなので、気楽にしていていただけると嬉しいです。
季刊である理由
さほどの深い理由はありません。
まず「ネットプリントで本を作ってみたい」という好奇心と「彼をテーマになにかしら書けそう」という発見とが『末広』を作ろうと思ったきっかけです。そこに「書くルーティンを作りたい」「書きやすいようにテーマを設定したい」が合わさり、季刊という発想に至りました。
「季刊」という言葉が魅力的だっただけでしょ、と言われれば返す言葉もございません。ははは。
とはいえ書き手の都合上、書きたいときに書いたものを出すスタイルは曲げられません。季刊と言いつつ、筆が乗ったときは初夏だの新春だの理由をつけて出しますし、特に成果が上がらなければ季節が変わっても出ません。創刊号が最終号になる可能性も大いにあります。
底の浅い元気を大学の課題からnoteを書くまで広い用途に使っているので、できないときはやりたくても無理。わがまま極まりないですが、どうかどうかご容赦ください。
サードシーズン等が始まった場合にはわたしは「わー」とか「きゃー」以外なにも言えなくなり小説を書くなど到底できなくなるので、発行がお休みになります。(原作が大好きなのです)
たぶんその後は終刊になります。まとめて本にする予定なのでなにとぞご理解ください。
※「號」の字は先日国立新美術館にマティス展を観に行ったときこの表記をしている「別冊文藝春秋」を見たのが由来です。なんて都合がいいんだ! と思いました。
内容
・墓標
『桜の樹の下には』のパスティーシュです。『檸檬』のセリフもたびたび引用しています。昨年春に「桜の森」風のお花見話を書こうとして更新が再開し挫折したのでそのリベンジ。結局「桜の森」が入り込む余地はなくなってしまいましたが。
文体模倣はあまりないので広義のパスティーシュです。元作品の意図するところも一部拾い上げたり(この表現に上下意識はありません)変奏したり、借り物ですが気合を入れました。
・なんでもない夜
元々のプロットのテーマが『墓標』とだだ被りになってしまったので急遽路線を変えました。元々はカクテルを飲む話でしたが、食と酒に寄らないようモチーフを変更。夜更かしの話であること、途中で「君ってやっぱ……」と言う場面は維持しています。そこが書きたかった。
『墓標』がかっちりした作品なのでこちらはライトを意識したのですが、ライト文体が苦手なもので自信がありません。原作っぽさを香らせたかったのですがたぶんできていません。会話劇って会話劇でしかない。
日常性、遍在するなにかについて必死に書き留めたつもりです。
・俳句五句
春の季語でイメージ俳句を詠みました。俳句はいわば季節と感動の純粋な結びつきのみの文学です。ゆえに句自体にコンテクストを語ってもらうのは非常に困難で、正直二次創作向きではありません。しかし、読み手がコンテクストを共有している場合とそうでない場合で受ける印象が変わる点は短歌よりも顕著でおもしろいと感じています。読み方や感じ方を押し付けない、読んだ方の心に浮かんだものが正解、という良さを殺さないように心がけました。
聴いていた曲
引用・パスティーシュ・参考作品
・梶井基次郎『檸檬』
・梶井基次郎『桜の樹の下には』
参考資料
・『梶井基次郎全集』全一巻
筑摩書房 1986年
次回予告
次号は夏を予定しています。
※前述の通り。
内容は未定ですが、書けたものをお送りします。今回フォーカスしていないキャラクターと絡ませようかな、と考え中。
一つ書きたい夏のコメディがあるのですがちょっと長くなってしまう懸念あり。サクサク進めればあるいは、という感じです。
夏には2月のカリパ3で出した散文のネットプリントも予定しているので、それと共通させる形でおまけをつけようかと画策中。
できたらいいなあ。夏のスケジュールが大変なことになっているので出せなかったらすみません。秋は出せるかな、と思います。
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