「謎」とは何か考えてみる。

※こちらはすーさんさん(@su_san4221)さん企画のアドベントカレンダー「あなたは謎が好きですか?」に寄せた文章です。

こんにちは。しん(twitterID:@a2k_shin)と申します。
謎解きに本格的にはまりだしたのが2018/8なので、そこから約2年強、謎解きを趣味としています。ちなみに、昨年もこちらの「あなたは謎が好きですか?」で記事を書かせていただいたので、今回2回目です。

基本は解く人なのですが、最近作るほう(作問・Web実装)も少しやっています。謎解きをどれくらい好きかは自分でもよくわからないのですが、好きになれなかったtwitterもLINEもキャッシュレス決済も全て謎解きのために始めたので、それくらいには謎解きが好きなのだと思います。

自己紹介はこれくらいにして、以下、今年書いてみたかったことの本題です。

「謎」って何だ?と、ふと考えてみたくなった

9/1に、うりよしきばさんが以下のようなツイートをされました。

・・・さすがです。問題設定が絶妙なところをついてこられます。
普段、他の方のツイートにあまりリプはしないのですが、この問題の絶妙さにとても魅かれて「この問題を謎と思うかどうか、それはなぜなのか」を自分なりに考えてリプしたのですが、時々それでよかったのかが気になっていました。

なので、今回、この場を借りて、あらためて「謎とは何なのか」の自分なりの考えを書き下してみよう(*1)と思います。
(*1)自分なりに考えて書いたのですが、既出の何かとだだかぶりだったらすみません・・・

なお、「謎とは何なのか」を書き下してみるにあたり、私(=しん)が「この考え以外は排除する」、というもの"ではない"旨、ご理解いただけると幸いです。

哲学が「人間とは何か」を何百年もの間、ずっと議論し、いろんな説が出きったと思いきやさらに違った視点の説がでてきて絶対的な解にはたどり着いていないように、「謎とは何なのか」も結構難しい問題なのではないかと思ってみるところです。

1. 謎はどこに宿るのか

「謎」の範囲を仮決めしないと議論が進まなさそうなので、一旦、世間で「謎」と言われるものを全て「謎」である、と仮置きしてみます。

1-1. 答えに謎は宿るのか。
・・・答えが初めからわかっている謎もあります。答えそのものには謎は宿らなさそうです。

1-2. 問題の見た目そのものに謎は宿るのか。
・・・そんなこともなさそうな気がします。例えば、解きなおしの謎は、見た目は全く同じであってもその前提条件等が変わることによって別のものに見えるような。見た目そのものだけには謎が宿らなさそうな気がします。

ちょっと別の角度から考えてみます。

1-3.「盗用された謎」を考える
行為としての盗用はもちろんいけないことですが、ここでは謎そのものだけを考え、論じます。
盗用を隠して謎として出されたもの(以降"盗用謎"と記載)に対して、その盗用元の謎(以降"オリジナル謎"と記載)が分かったとします。謎の観点から見ると、オリジナル謎と盗用謎の関係は単なる電子コピーにしかすぎません。
でも、オリジナル謎が分かった瞬間に盗用謎の謎としての価値は無くなります。なぜだろう。きっと、オリジナル謎によって見た目やそれによる着眼点と解法、ならびに答えを全て理解しているために、盗用謎が謎で無くなってしまうのではないでしょうか。

一方で1-1.や1-2.で答えそのものや問題の見た目そのものには謎は宿らなさそうです。そう考えると、解法の新規性、そこに「謎」のとしての性質が宿りそうです。

2. 解法の新規性を考える

1.が正しいのならば、解法の中に解き手が感じる新規性を表現できるもの、それが「謎」ということになります。では「(解法に感じる)新規性」をどう定量的に表現したらいいものでしょうか?

一つには、学術論文のように「謎」を解き方含めて文章化し、公開、ある種のデータベース化することなんだろう、と考えます。でも解法の新規性そのものに「謎」性があるのだとするのならば、それを明示することはある側面では「謎」ではなくなってしまうのだろう、と。つまり、謎のデータベース化することは限りなく難しいんじゃないか。

もう一つの方法としては、人の感じる新規性を定量化する、ということが考えられます。ある特定の1人が解くことを考えての謎ならば、もしかするとその人の思考とか経験とか言ったものを徹底的に調べつくせばできるかもしれない。でも、それが2人、3人と謎の解き手の対象を広げたときに、人によって新規性を感じる範囲が違うだろう。究極的にはアンドを取れなくなるかもしれない。てか、そもそも人が新規性をどう感じるかってどう取得するのか、を考えるとやっぱり現実的でない気がしてみます。

すると、現実的には謎の解法の新規性は、ある種の相対的というか感覚的というか、厳密な定量化はできずに、そういう曖昧性をもったものにならざるを得ないんだろう、そんな気がします。

3. そして、1.と2.より考えてみた

どれだけ定量的な新規性の表現を目指して出題しても限界がある。となると、「解き手が実際に解法に新規性を感じるかどうか定量的な判断を行わずとも、謎の作り手が『これは解き手に解法の新規性を感じさせるだろう』として作られた謎」、(ちょっと極論だけれど、)これと結果的には変わらないもの、そうとらえることもできそうな気がします。

※補足:もちろん、謎の作り手の方々が常に新しい視点を表現するために、苦労し、デバッグをはじめ周りの方々に意見を聞き、熟考を重ねた上で出されているだろう、というのは重々承知しているつもりです・・・。あくまでも論の上で、と、とらえてください・・・。

上記を言い換えると、作り手が(解き手に解法の新規性を与えるものとしての)「謎」だ、として出したものは、それが解き手に実際に新規性を与えるか否かはおいておき、全て「謎」である、厳密にいうならば、「謎」であると"認めざるを得ない"んじゃないか、そんな気がします。

なので、冒頭のうりよしきばさんのツイートの画像は、うりよしきばさんが「解き手に解法の新規性をもたらす」ものだとして出題されれば、それは「謎」になるのではないか、と、私なりに考えてみました。極論かもしれないけれど、例えば数学の問題であっても出題者が解き手に今までにない新しい解法・視点を与えるものだと思って出題したのであれば、それは(数学の問題であり、かつ、)「謎」でもあるんじゃないか、そんな気もするのです。

4. おわりに

冒頭でも述べましたが、あくまでも1つの「謎」のとらえ方としてみていただけると幸いです。

ちなみに、学問としての哲学がもたらすものとして「そう考えることにより人間の暮らしを楽にする」という1つの側面があるそうです。真理を解き明かすことそのものに主眼を置くのではなく、そう考えることにより気持ちを楽に前向きにして何かに取り組めるようになる。

「謎の作り手が『謎』と思えば、それはもう謎である。」

上から目線だけど、もしそう考えられれば、何か気軽に謎を作っていただけそうな気がするし、私が今後、もし謎を作ることがあっても変な気負いなく作ることができそうな気もします。

だって、これからもいろんな謎を解いたり作ったりしていきたいんだもん。

以上です。

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