私は、謎をどう見ているんだろう。

※本記事は、すーさん(@su_san4221)さんが作成されたアドベントカレンダー「あなたは謎が好きですか?」に寄稿している記事です。

「しん(twitteID:@a2k_shin)」と申します。
2018年8月に「シン・ゴジラからの脱出」にフラっとソロ凸して以来、
今では1,2週に1回何かしらの謎解き公演に行く程度に、沼にどっぷりはまってます。

ここでは謎解きを公とみて私生活では、
N年前に大学院の情報系の専攻を卒業し、某企業に入社して今に至ります。
学生時代にはいわゆる研究をやって「論文」を書き、投稿しました。

「論文」ってなんぞや、というと、私が主戦場としていた情報の分野では、
『自分が「世の中にない新しい」ものに生み出した、または、ことに気づいたことを説明する』文書です。
自分が生み出したものが世の中にはないことの説明をした上で、
「新しいものを生み出した」のならば、実現方法とそれが目的の動作をすることの証明を、
「新しいことに気づいた」のならば、どういう評価をしてそう言えるかの証明を書きます。

文書を書き下せばそれで論文になるか、というとそうではなく、
ここに「査読」というプロセスが入ります。
有志によって文書の内容が本当に新しいのか、本当に実現できるのか、を判断するプロセスで、
評価基準は色々あるのですが、例えば以下のような基準で判断されます。

・新規性:どれだけ新しいのか。
・有用性:どれだけ社会の役に立つのか。
・信頼性:書かれている内容はどれだけ信頼がおけるのか(再現性:書かれた内容だけで誰でも実行できること、や、論理的構成等の良し悪し等)
これらに、文章の読みやすさ等も加えて判断されます。

査読で合格となって初めて「論文」として認められ、公開されます。
いい論文は「してやられた!(なんで自分で気づけなかったんだ!)」と思うとともに、
自分のものの見方が拡張される感じがして、ためになるし、知的好奇心も満たされます。

・・・

・・・あ、冒頭から話がめっちゃそれてる。

以下、本題。

「謎解きは好きですか?」・・・好きです。
いくつか思い当たる理由はあるのですが、その1つに、
自分にはない、作り手が発見したものの見方に触れられるのがあるんだろうな、と思ってみます。

例えば、それはものの見方自体に潜んでいて、
「-」に対して、
『...ほんとに「マイナス」でいいの?「漢数字の1」「ひく」「差」「減(加減乗除の「減」)」「一画の漢字」「長音」「ダッシュ」「ハイフン」...色々読めるよね?』
と訴えかけられたり、とか。

例えば、それはものとものとの関係性の中に潜んでいて
「-」が「マイナス」
だったとしても、
『「-+×÷」と書かれると「-」は「マイナス」と素直に読めるけど、
「-十百千...」と書かれると「-」をうっかり「漢数字の1」って読んじゃわないかい?マイナスだって気づかないでしょ?』
と訴えかけられたり、とか。

こういう作り手が発見した新たなものの見方が、
もの自体やものやものとの関係性といった形で、小謎や大謎のいろんなところに埋め込まれていて、「私はこういうものの見方を発見したんだぞ!」と随所で訴えかけてくる。

謎解きの中で、作り手が示すものの見方に気づけないと悔しいこともあるのだけれど、
最終的には「よくこんなの見つけるよなぁ」に自分の中で落ちていくとともに、自分のものの見方が拡張されたような気がする。
それが知的好奇心を満たしてすごく気持ちいい。

だからこそ、私は謎解きが好きで、自分のものの見方をさらに拡張すべく、
公演に足しげく通い、一枚謎を次から次に挑戦してみたくなるのかな、と思ってみます。

・・・

・・・この、私の謎解きに対する見方って、
冒頭に少し書いた「論文」を見る目と同じような気がするんですね。

ーこの謎はどういう点で新しいものの見方を自分に提供してくれる(≒新規性)のか。
ーこの謎は公演全体の中や大謎につながるものとして、どういう役割を果たす(≒有用性)のか。
ーこの謎は一定の知識とともに論理的思考を経さえすれば、自分を含め誰でも解ける謎になっている(≒信頼性)のか。

私自身は謎解き公演の制作もデバッグもしたことが無いのですが、
きっと、各謎の新規性や有用性、そして信頼性を謎製作者さんは必死に考え、それをデザインにより強化し、デバッグという査読を通してそれらが公開するに耐えうるものであることを確認した上で、公演における謎として公開するんだろう、と。

その公開された謎に対し、私も新規性、有用性、信頼性の観点で向き合っていて、
それらの観点で自分の想像を超えた謎に出会えると、謎解きに成功しようが失敗しようが自分のものの見方が拡張される感じがして、「うわ!」となってうれしい。

私としては、謎にはインパクトに残る/残らない謎があったり「この謎や表現の仕方はどこどこの団体/個人さんっぽい謎だよね」とかがあったりする印象なのですが、
それはそのものの見方に初めて気づいた新規性を誰が作ったのか、というところから来ているのかもなあ、と。

そういう意味では、謎は一種の「論文」なのかも。

そんな目で謎に向かい合っている気がします。

・・・

・・・こう考えると、今度は新規性ってどこまで出せるものなのだろうか。
先行事例のノウハウがあればあるほど新規性って出づらくなるはずなので、
何百回、何千回と謎解き公演に参加されている方や、謎を頻繁に作られている方々から見た謎はどう見えるのだろうか。そして、人類はどこまで謎に「新規性」を出すことができるのだろうか。気になる。

そんなこんなを考えながらも、明日からも謎という「論文」に向き合って「してやられた!」となるであろう日々を過ごすところです。

以上です。

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