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第6話 協奏曲 冬

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 とめおけぬ佳奈子の狼狽ろうばいは、ぽつり鍵盤に素肌あらわほおった雪乃へのじくじりでなく、猥雑わいざつと自責にわれていた。

 まるで殺人現場や幽霊でも見たかのよう弱々しい浮足を巻きつかせ上がりをよろよろと駆けたあと、寒さ身ぶるうよう、わらわと鍵穴をたどる。

 ぽうと紅潮こうちょうする頬と股ももをぬぐうように部屋に這わした佳奈子はどうにかとっさ受話器に手をのばした。

「……お、お父さんっ、か、かけなおしてお願いっ」

 ふためき趣旨しゅしさだまらぬ佳奈子の触れ事を父の京六きょうろくが理解するにはよくよく寸刻すんこくを余儀なくされたようだ。しようもなかったのだろう、またたすきとはいえ佳奈子は八歳の教え子に淫靡いんびめすのよう呼び水を誘淫ゆういんさせれたのだから。

 この時、雪乃は完全に声を失っていた。病とかではなく懸命いくら声にしようとしても声帯が動かない。かすれ声やうなり声すらもだ。

 それは “ 意思を消す ” という衝動行為そのもの、おそらく心因性失声症であろうと京六は佳奈子にほだした。しかし信じがたいがと続いた性的な行為を義父に強要されているのだろうとの京六の見込しに佳奈子は額をうつぶし崩壊した如く泣き叫びをあげた。

――京都市愛宕山あたごやま――

 嶽弁天だけのべんてんと掲げている鳥居の先、くぐり登りきった場所に弁天女堂べんてんにょどうという神社がある。千手観音を収めるそこは天狐が住んでいたとされる随心院ずいしんいんゆかりの神社だ。

 『まずは彼を知らなければ打つ手など見つけられはしない』
 
 京六の持ちかけに二日の休暇を取った佳奈子は雪乃の生まれ里に足をむけていた。事態ゆえ雪乃の義父に物問うわけにもゆかず、四方しほうの役場を経てようやくにたどり着いた場所だ。途中、交錯こうさくした雪乃の素性に足りぬ休暇ではないかと案じたのだが、教員としての佳奈子、まして元警察官で大学講師という京六の肩書きは存分に役だったようだ。

 険しい山道を鳥居から小一時間もを要したのは存外二人の肩を揺らしたが、秋口頃合いの木の葉の様相は局面を忘れさせるような心地よさだった。

『こ……こんな場所で雪乃君は幼少を過ごしたというの?』

 佳奈子の想いに木々の空気がやや下がったように思えた時、本堂らしき場所からことさら大柄な男性が手まねいた。先に便りを取っておいた宮司である織屋勝元おりやかつもとであろう。二人が緒所しょしょさぐった末に訪ねた彼が雪乃の最初の保護者である。

 最初というのは、どうやら雪乃は “ 棄て子 ” としてこの神社で六歳までを過ごしたようだ。のちに律令に曖昧さをいざよう訳にいかなくなり小学生にあがる時に裕福な家系に正式な縁組みをしたらしい。当時は戸籍の扱いがずいぶんといい加減なもので、雪乃の名前、まして生年月日までも勝元の一存だったようだ。

 勝元いわく、役場にひとりの知人でも居るのならいっそ他愛ない事だったらしい。しかし宗教的な意味合いで他に二つの名をもっているというのだから、それは当時でも存分に通念を外れたものだろう。

 かの国が拉致などを難なくこなせたのもそのうな手隙てすきゆえなのかもしれない。

 佳奈子たちは雪乃の次の里親まで連絡を取り次いでおり、のちに訪問する手筈だったが、茶をもてなす勝元の逸話にすっかり気概をかき消されたようだ。

 いや、それはあくまでも推し測りでしかないのだが。

 勝元は想像できると言った。雪乃は弁天女堂の刷り込みが一番に強く、驚くほど自分の意思やわがままを絶対に出さなかったようだ。当時はただ強い子だと思われていたが、六歳の縁組みで初めて悟ったのだろう。

 自分は木々の股から生まれ出たのではなく、親という人間に捨てられたのだと。

 そして自分はまだまだ非力で生きていくには大人の力がないとの想いから見そめられるように心がけた。

 最初の里親というのも裕福ではあったのだが、仕事絡みという事情で雪乃を連れたままよりによって当時内戦おさまらぬベトナムに長期滞在となった。それはいくらか安全な環境だったのかもしれないが、地獄のような絶望と失意は雪乃の心を封じるには十分だっただろう。

  “ らしくない、出来すぎ ” とのこと、たかがその理由で縁組みが破談になったのち、僅かな孤児施設をへて柏森に拾われたのだろうが、雪乃は気付いている。生きるために使える武器が自分にあることを。それが年齢そぐわない妖艶さをかもすのだろう。それが卑猥極まりない事であれ生きていくため。雪乃は心を封じたのを越して根こそぎ殺したのだ。

 それはもう人形と大差はない。

「なぁ、先生方……死んだ心は吹き返すのか」

 想像を凌駕どころではなかったのだろう、ここは日本だよねと佳奈子はこれでもかと嗚咽おえつつまらせ泣き叫んだ。

 父の京六はしかりと佳奈子の肩をかかえ “ 小手先は通用しない、ひたむきに向き合うんだ雪乃君と ” と何度も何度も繰り返していた。

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