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第8話 G線上のアリア

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 かすみを誘うかに頬をあたためる日差しが格子窓に夢見草の花弁はなびらをちりばめている。

 放課後に幕をあける二重奏、それは桃色のちりに喝采をみまわれるたび拍子をあわせていくようだ。

 根負けとでもいうのだろうか、半年ほどがすぎた頃。雪乃は夕陽さす窓際の席をはなれ、後ろにあわせた手を立ち腰にもたれながらかなでをこがれるようになっていた。佳奈子待つ音楽室の鍵がひらかれるのを心待ちにするように。

 とはいえ、至ったのは佳奈子があまねいていなかったからだろう。

 三日月にいぶきを浸すのは無償の結びだとふれた京六の示唆しさにそくし、日頃つねに重なるよう親方やアネゴ、博士との距離を意図的に縮めさせていた。

 グループ学習などには連れになるよう、なおもそれだけにとどまらず日曜日には野外授業と称し皆をひきつれ、佳奈子は雪乃を家からつれ出したりもした。さりとて “ お泊まり ” の話を聞いた佳奈子は随分とよろこばしかったようだ。

 学徒どうしであればしか叶わない事、佳奈子はあぐね垣間知りたかったのだ、今だにわか半信半疑である雪乃と義父のなからいを。ましてきっかけにできれば学徒同士というていで雪乃を自分の家にも招けるであろうと佳奈子のはかりだ。

「どうだったぁ美奈ちゃん、お泊まり会は楽しかった?」

 しかし無垢楽しげにアネゴの言いあらわした柏森家の様相は、佳奈子に必至と顔色たもち続けることを背負わせた。よすがっていた半信半疑はむごたらしくも落着らくちゃくしたのだ。

 柏森の家はその邸宅ていたくをもて余すかのよう二人棲まい。雪乃は帰着すぐ言わずもがな当然のよう唇に紅をひき、嬢子じょうしの服を着るという。四十手前の母方が都市部の病院で長らくわずらっているので母役芝居だとのすすむ、雪乃の義父の言葉を鵜呑み疑わぬアネゴは紅をひいた雪乃が見張るほどの美人だったと高揚はずむよう物語った。

 そうだろう、よこしまな邪心などアネゴは持ち合わせていないのだから。

 例がない……ましてかのよう山あいの集落ではと佳奈子はアネゴのうなじを見たあとに、しゅう滲ますほど唇を噛みしめ眼鏡を雲らせた。されど事件化などとうてい無理な話、できることならば今すぐに雪乃を自分の養子にしたい程だろう。しかし今の佳奈子にできる事はつたない時間であれ雪乃と向き合い、義父のゆがむ濡れ事からほんのわずかでも離す事だけだった。

――音楽で目をさますとマリア様が僕のところに現れて素晴らしい言葉をくれたんだ、彼らは離ればなれになってしまうかもしれないけど、また会う機会はある。答えは必ずあるから身をゆだねなさい――

 疎外ゆえなのか、この集落は二つだけのチャンネルにかかわることが無いようで流行る二人組の女の子にはまるで関心が無い。何人なんびとの吹聴がふれあるいたのか音楽室に寄贈されるレコードは外国の物ばかりだ。その中でことさら雪乃の耳を愛でた曲は『私の家でゆっくり聞かせてあげる』という佳奈子の切りだしをもたらせた。宿泊のむねはしかりと伝えるから義父への気使いは不要だと佳奈子が撫でた三日月は気づかぬほどだがわずかしなやかさをいだいている。

 それはほんの少し……少しだけ動いた雪乃の息吹きだ。

 いくえにも、まるで耽溺たんできのように重ね続ける二重奏。放課後の音楽室、週末に訪れる二人だけの観賞会の月日は相違をひと針ひと針とあわせていった。

――頬をうった日の蜜を自身の佳奈子が許したころ、週末のひどい蒸し暑さに二人は湯船をプールがわりとぬるく浸し、火照りをさます。しかし部屋で回り続けるG線上のアリアという曲のレコードは何か水遊びよりも穏やかにするようで、佳奈子は追いかけ釜に熱を灯した。まったくこれではただ二人で湯につかっただけだと佳奈子は笑いながら雪乃の背を流す。

 ふと……いつからなのか、至るところ見せた紅の痣が雪乃の艶肌につやつやとすっかり消していた。

 確認するよう背に触れた手を何度も愛でる佳奈子は長い長い二重奏がようやく躍動したかのごとく堰をきらし、浴室さんざんに涙をひびかせ雪乃の背を抱きしめた。

「ね、大人の私がこんなに泣くんだから雪乃も悲しかったらっ、辛かったら泣いていいんだから……ううん、泣かないとダメなんだからっ」

「せ……んせ……」

 割れたガラス玉は湯けむりに滴るようにふわりとした頬を流す。佳奈子が魅いられ見つめ続けた三日月は二度目の夏を迎えた時のことだ。

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