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第9話 スワンレーク

←第8話 G線上のアリア


 人は運命を避けようとしてとった道でしばしば運命にであう――フォンテーヌ――

 意識不明の重体と報道されたのちの生存者はおよそ一割程度だという、ほぼ見込めないという事だ。

 柏森進は音楽室に足繋あししげる雪乃にぞんざいを舐め、うら若い仕様人を雇っていたが、集落のお偉方としていささか粗相そそうが過ぎたのだろう、まるで応報おうほうくだるさま初秋しょしゅうの夜ふけにその邸宅は火柱をあげた。

 いかにしたのか不可解だが、二階寝室に寝そべっていた雪乃は頬に煤滲すすしみらすもいっさいの手傷なく庭先で燃えさかる火柱を前に一人毅然と正対をかまえていた。

 それはまるで篝火見あげる教徒のようなまなざしで。

 地域随一の邸宅の全焼、有力者の逝去は間もなく集落を駆けめぐり、それは言わずもがな佳奈子の胸元に激しくうちつけた。

 すぐさま教え子なのだからと、ひとつ周囲の叱責しっせき、まして佳奈子になんの躊躇なく、しばしの間二人は共に寝食を重ねていたのだが、事態は市内の報道ざたまでの事。間もなくして雪乃は都市部の施設へと移されていった。

 佳奈子はじくじる想いでほうぼうを翻弄駆ほんろうかけあがいたが、引き金が大きな事件ゆえ、資産も足りぬ若き独身女性に養子縁組みなどは到底とどかぬ話であった。

 まるで雪乃の声がもどるのを待っていたかのよう、運命とやらは約一年半の二重奏にそこで幕を下ろさせた。

 のち佳奈子に届いた風のたよりでは、ひとつきの間もなく雪乃に養子縁談が決まったらしい。それはよろこばしい事であるはずなのだが、佳奈子はまるで胸がつぶされたように三日月をいつまでも抱きしめていた。

――平成六年十二月――

 紫煙のように吐息が揺らぐ暮れもおしせまった頃、京都市内のカフェテリアでついなる空の椅子に想いを託すよう佳奈子はカップに吐息をさましていた。

 待ち人……それはあれより行方さまざまだった雪乃だ。

 七年後に柏第一小学校が廃校になったのち、佳奈子は市内の小学校に赴任したもののわずかで退職し、現在は父の同僚として大学で神経心理学の研究にいそしんでいる。思いのほか生真面目だったようで、どうやら三十九歳の今でも生娘きむすめのままのようだ。

 いや、あの音楽室での記憶が彼女を研究に没頭させたのだろう……まるでそれは贖罪しょくざいのように。

 しかし教員というのはその職種上足跡をたどりやすいらしく、パソコンも一般的に普及していない時代にたどり着いた雪乃が佳奈子の勤務先に便りを送ったのだ。

 思春期の文通のよう心まちを数回やり取りしたのち、いよいよこの夜となった。

 “ 教え子と恩師 ” まるで言い聞かせるよう二杯目の紅茶をオーダーする佳奈子に、ダージリンとは異なる遠く煮詰めた蜜のような香りが舞った。

「佳奈子先生っ」

「あっ……雪」

 想いにふうけていた佳奈子を突如ほわんと照らした三日月は、まるで全部の感情を吹き出させるような衝動をもよおした佳奈子の言葉をつまらせたようだ。いや、やむなしなのだろう。薄茶のコートを折った肘にゆらし現れた三日月は、栗毛色の髪の毛をミルクティーのように長く変え、うっすらとまぶたに桜色をちらしニコリと佳奈子の前に表れたのだから。

 華奢なままの白い首筋と揮発した椿色の唇はなおさら当時の面影にあでつやをかもし、弓ように張る腰はまるで柳のようだ。

「仕事帰りでね、パンツスーツのままだけど……ごめんなさい、待たせちゃいました?」

「う……ううん、い、今きたばかりだから私も」

 安い恋愛映画でもなかなかお目にかかれないよう、佳奈子の言葉を待たずおかわりの紅茶が届くと三日月の人差し指がくるくると悪戯に遊び向けられた。

 まったく、これでは本当にどうしようもない三流映画だ。

 しかし二人は一斉に灯ったロウソクのよう時間をつなげ動かし始めた。

「クスクス、女になりたいわけじゃないけど、なんか自然なの、こんなかんじが。多分ずーっとあの頃のまんまなんだ私。徒然草を読めた時の……ね、佳奈子センセ」

 二重奏にメトロノームが刻むよう流れ始めた拍子をあわせる二人。親方とアネゴが結婚したとか、宮司は雪乃がえがいているより随分シワがあったとか。しかし雪乃はどうやら最初の音楽室の事は随分とおぼろげらしい。

 子供とキスしてしかも欲情したなどと覚えていられても困ると佳奈子は微笑みに撫で下ろしたようだが、何度も一緒にお風呂に入ったのだから結婚してくれるよねと言った雪乃に、慌て三杯目の紅茶をまかした様はどちらが恩師なのかというざまだった。

「宮司さんには本当に感謝しているんだ。私を鍛え上げてくれたし、逃げ道もたくさん教えてくれた……でもね」

 佳奈子だけが無償の贈り物をくれたと大粒の涙を紅茶に落とす雪乃の姿は、栗毛色の髪をした淡い少年のままの姿で佳奈子にうつっていた。

――優しい目をした三日月はひらひらと佳奈子の手をとり幕開けを誘う。連れ出た帰り道、二重奏はまたかなでを始めたようだ。それはまるで白鳥の湖のように。

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