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爪化粧。

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 嗜好を覚えてから随分な時間が過ぎた。何人さまざま癖があると思うが、私の妙な癖は煙草の吸い方だ。

 埋もれる事無く利き手で筆も飯もこなすのだが、紫煙を燻るのだけは左指。キネマに真似をする訳でも昔のツレに説されてもいないが、気がついたらというやつだった。

 それこそは厄介で、不自然さを醸さない故逆利きなのかと他聞にされる。妙な話だ、日本人というのは尚更異質を嫌うのだとそれだけで理解ができる。なにせその度に口元が嘲るように弛んでいるのだからな。

 だがけらけらと渇くような喉にもまれに潤いが流れる時がある。少し洒落の利いた夜分の賑わいの中だとそんな些細な事が眼鏡に止まるきっかけになるからだ。彼女に叶ったのはもれなくその妙な “ 左腕の癖 ” のおかげであろう。

「でも、きっとこよなく愛しているんだね。妬いてもいい? その左腕に」

 さながら果汁をすくうように左腕に唇をなぞる……上着越しにも八重が刺さるほどに溶け続く行為は安い官能キネマも顔負けなほどだ。

 鈍痛に随分な歯形でもあましたのかと余韻を確認する頃は翌の仕事を一段落させ、灯し始めた煙草に摘まむ指先を向けた時だった。

 揺らいだジッポーライターにチリリと移った僅かな火種が眩暈を促した。爪先、いや慌て捲り上げた腕までもまるで見慣れたモノではなかったのだ。いや……見慣れとは違ているのだが見覚えはある……しかしもれなく凡人なのは間違いなく “ 見なかった事 ” のようそそくさと袖にカフスを止めた。なにせ違和感無く従順に紫煙を揺らしているのだしな。

 よく言うだろ? 『蓋をして解決出来る問題は無い』って。部下に酸っぱく講釈しているクセにな、すっかりに後の祭りだ。いや、きっと凡人のままならば良かったのだが、部屋に帰った後ゆるり左腕を摩り吟味かい撫でるとさしたる醜悪が生まれた。

 仕方が無いさ、小さな会社で去年初めて役職がついたような年齢だ。まるで意図のまま動く腕がこんなに妖艶なのではたまらない。ぬいぐるみと話をする子供のようでもあるのかもしれないが、私と奇妙な左腕の関係は即座、そして日に日に淫遊に溺れていった。

 二日前の酔いしれた情事をことさら思い出し左腕に “ 雪乃 ” と名前を付けた。そう、桃色のマニキュアを彩でていたあの夜の彼女だ。対象の如く白く繊細な左の薬指がぴくりとうねった気がした、……まったく意思とは離れたように。

 覚えていないかな? 子犬のヤツだったか、録音した特定の音や言葉にだけ反応する玩具。どうやらこの細く指先までしなやかな左腕を揺り起こすのはそれと似ているようだ。

 所有物である右腕と、さほど湿り気足らずの舌先で『雪乃』と愛でると徐々に沁み込んだよう手首をうなだし、肘を上げると指先を中指から一本づつゆるり弾き始める。
 冬眠から醒めたばかりの蛇がトグロから凭れる枝木を探すよう胸部からスルスルと下腹へ這わす白い指は全く淫遊の虜にさせていった……まいったな。これでは伴侶等必要ではなくなってしまうではないか。

 知らぬ女の意識で勝手に這い廻るようなおぞましきモノとよくもまあねや狂えるもんだと思うが、自分の身体が己でわないというのはいささかこなれていて、私は “ 不思議の国のアリス症候群 ” だものでこのような感じはさほど非日常ではないのだ。どこかの医者が名付けたらしいが、まさか正式な名称になるとは本人もゆくりなかったのだろうからどうにもならん。おかげ気恥ずかしくて相談どころか他言すらも躊躇ままならないざまだ。

 しかしこうも惜しみなく淫遊に没落できるのは間違いなくアリスのおかげなのだから名付けの医者には存分に誉め讃えておくとしよう。このような至極の遊戯、好色はおそらく大枚はたいても喰らえるモノではなかろうしな。

『一時の欲望をさらけだすと必ず後悔する』

 深酒に溺れた翌朝や己が優遇されなかった故だけのくだらぬイサカイとかな。とびきりなのは下腹部を砕く幻想に知らぬ相手と重なった後だ。たっぷりと絞り出した後に “ 良心 ” という不条理な魔物にいやというほど血まつりにされる、降参するには忘却するしかないのだから随分とひどい話だ。

 しかしこいつは都合がいい。雪乃に毎夜どれほどの淫欲を晒けようが、細白い左腕のうねる妖艶な性動はまるでたゆまぬのだから。
 指先でなぞる仕草は見えていない証、嘆かわしい程の嬌声もお構い無しなのは聞こえてもいぬ証だろう。『雪乃』の呼び掛けには応えるようだが、深追いはきょう醒めというやつだ。自慰でも覚えが無いほど毎夜に摩られた淫遊をむさぼり跳ねているのだから。

 理解したのは二度めの白濁をヘソで埋めた後だ。収まっても尚、くちゅりと粘りを掴み湖をひつこく遊ぶ白細い雪乃の人差し指は堪らず取った煙草を灯すとぱたりと支配下に落ち戻った。……どうやら彼女は煙草が嫌いなのだろう、何の贖罪なのかわ知らぬがそれからというもの紫煙は右指で摘まむように心がけた。若いつもりではいるが四度五度と摩られては身が持たぬのだから礼のようなものさ。

 後の夜は雪乃も小馴れたモノだった。まもなく身体を落としたばかりは唇に這わせた指からたんまりと唾を掬いとり小さな湖に浸し、水飴のようなモノをとろり胎内の奥まで白細い指をめぐらせてくる。

『イスラムやインドとは逆で神道やらじゃ右不浄、左格上。インド密教のタントラは性魔術の左だったか』と揺らがした右指の紫煙にいたってマヌケな思案をめぐらすのはそこいら中が水飴びたしになってしまったからだろう。浮き世に殊更に浮いているようなザマは存分に滑稽だ。
 しかし忘却しなくてわいけないような後悔はない。このよう対価無く至極の快楽を喰えるのに一体何の迷いが必要だというのか。

 至極の毎夜に対価はなかった。のだが……いいや、うかつだったのだろう、ツガイ夫婦には良く聞く話だ “ 相手への敬意を忘れる ” というヤツさ。長年の慣行というのはうわべ愛慕うで払いきれるもんじゃないという事だ。

 かまけた奉仕事に思慮が落ち、左腕に紫煙を這わせてしまったその夜、淫遊の後に喉元へと爪化粧が深く刻まれた。

  “ 左腕は私のモノ “

 どうやら随分と嫉妬持ちだったのだろう。だけれど多分におかしい話だと思わないか? 眼鏡に叶ったのは紫煙を左腕で揺らした故、のはずなのだから。

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