見出し画像

個と自己について

 個性や自己同一性と言う観念はあいまいで、世の中には80億の人間が存在し、殆どの人間は社会的に代替可能である為に、一見意味が無いように思えますが、微視的に見た場合、個人には意味があり違いがありますね。

 ではその個の違い、個を個たらしめる何かとは何かを考えた場合、それについて明確な答えは出しにくいものです。
例えば記憶はあいまいですし、意識は毎日1回断絶しますし、同姓同名は数多く存在しますし、人は死にますし、社会は崩壊します。
であれば個とは存在しないのかと言えば、おそらくそれは極端な論理であり、例え世界が崩壊したとしても、人間の体が物質でできている以上はその人間個人は再現可能です。つまり、個がいくら挽肉になって粉になっていずれその分子が消えたとしても、創世以来のインフレーションがもう一度完全に同じ再現を繰り返した場合にはその個人は個人と言うしかありません。
天然の昆布から抽出されたグルタミン酸Naと遺伝子組み換えした酵母から作られたグルタミン酸Naとが全く同じであるのと同じように、もしくは中国と西洋の辰砂が同じ事と同じわけです。
 また、人が死んだとしても個人は存在します。
例えば私が死んだとしても、この文章を書いた誰かについて形容する場合、彼はこのように書いた、とその個があったような表現をしなければいけませんし、

それと同じく、個性、自己同一性に生き死にと言うものは関係ありません。
では自己とは何でしょう、例えば私は黒髪であったとして、黒髪を持つ人間はみな私であるわけではありません、身長の高さや好き嫌いの一つ一つでもまたその通りです。
しかも、これは私の属性であっても私を規定しているわけではありません。
髪色を染めた時に私が私でなくなるわけではないからです(髪色を変えると言う行為は可逆的ですが)。
その一方で、私が私自身であると言う事が出来る固有の属性も存在します、例えば私はある特定の日の特定の日付に生まれましたし、その場所は一つきりです。
これは変化する事が全くありません、日付違いの可能性は存在しますが、適切に記録されていると言う前提の下では全く変動しないものです。
ではこれを個であると形容する事が出来るのでしょうか?それは否でしょう。

 確かにこれらの定義は私を拘束しますし、私はここから逸脱する事は出来ませんが、それは単なる便宜上の話であって、私自身である事とはそこまでの関係を持ちません。
例えば(並行世界の仮説を無視した場合)私は生れ、そして死ぬわけです(そのように絶対的に形容出来るわけです)が、今の私と全世界の人々は私自身の死ぬ日を知りません。
しかし、私は私であると事実として形容しているわけで、それは全世界の人々も同じだと考えられます。
つまり、それと同じように、私に対して1対1である固有の属性が私である事の本質にはならず、私が私であると言う因果を生み出す契機になったとしても、私が私である根拠についてはこれをそうであるとする事が出来ません。
子供の取り違えなどの事例を考えたとしても、個人を識別するのに便利であると言う以上のものではありません。
そもそも、西暦にしろ他の暦を使うにしろ、全て明らかに恣意的で一部は問題を抱えているものであり、地球の回転が変化しうる事を考えても絶対的ではありません。
つまり、繰り返しになりますが、私は○○と言う日に生まれたと言う事は出来るとしても、私は○○と言う日に生まれたから私であると言うのは根拠が不足しているのです。

 一般に、個を形容する場合、彼は○○であると言う事が可能です。
例えば彼女は左右で異なる髪型をしている、彼女は学生だ、彼女は2004年に生まれた、彼女は死んだ、彼女はかわいらしい……などと形容する事は明らかに可能です。
個人の認識において、個に対する認識と言うものはこれ以上のものではないとできます、つまり、個の本質を一言で言うことは出来ませんが、個を形容する事は可能であると言う事です。
これは例えその属性が可逆的であっても可能です、つまり、永続性を必要としないわけです。
例えば先ほどの彼女が髪型を変えたとして、その文章を彼女は左右で同じ髪型をしていると書き換えて別のフォルダに保存したとしても、先ほどの形容は意味を成します。
時間的変化を無視した文脈を持つ文章として。
2004年に生まれ左右の髪型が異なる死んだ学生と言うのは可逆的な変化をする以前のその個を表していると出来るからです。
よって、不完全で時間的な制約があるとしても個を表現する事は(多く形容する事によって)可能であると言う事が考えられます。
では、個を形容するときに時間的な制約を付ける必要性、先ほどの例で言うと2014年段階における彼女は先ほどのようであった、などと表現する必要があるかと考えれば、そうではなかったと考える事が可能だと思われます。
何故ならば、先ほどの例ではわずかな形容詞でしたが、それを無限に近い形で語った時に、その個以外を示せなくなる段階がある筈だからです。

この段階と言うのは量的な比較は出来ても質的な比較は出来ないと思われます、何故ならばその無限に近い形のとても多い形容表現を一つ排除してもその個以外である蓋然性は非常に低いからです。
これについて、そのような形容詞を無限に繰り返す事は全世界を記述するのと同じではないか、もしくは個人の分子全体を記述するのと同じではないかと言う指摘があるかもしれませんが、おそらくそうではありません。
何故ならば、そのような形容詞を繰り返す必要性はその個の周りにのみ完結するからであって、例えば先ほどの例の彼女を形容するのに木星の衛星に生物がいるかどうかを記述する必要はありません。
また、それと同じように彼女の手の蛋白質の爪の端がケラチンであるのかコラーゲンであるのかを記述する必要はありません。

 そして、個人を形容する表現自体は無限ではなく有限です。何故ならば、個はその成立において有限であり、どれだけ多く見積もっても彼女が生まれてこれまでの世界との相互作用の時間以上のものは存在しないからです。
仮にその可能性を記述するとしても、その世界を記述する必要はなく、その世界においてどのような反応をしうるかを記述する事が出来、それは有限であると考えられます。
つまり、個は有限であり、時間的制約を受けない形容詞の集まりにおいてその個らしさを表現できると出来るわけです。

 では、時間的な制約を受けないとしても時間的変動をする現実において、個人の個たらしめるそれを一般的に表現する事はどのようにすれば良いでしょうか。
個を表現することが出来ても、変化した後の個がする前の個と同じであったとする事が出来なければ、単なる記述に過ぎません。
変化する前の個と変化した後の個はどう違うでしょうか。

1分間が経った後には、その形容詞のうち「心拍数は○○であった」だとか「椅子に座っていた」などと言う形容詞は使えなくなっているハズです。
その上で、個を個たらしめるそれをどのように表現できるでしょうか、おそらくその中には不可逆的な変化もあると思います。1分程度であれば可逆性が強いため、元のように形容出来るでしょうが、
1時間、1日、1年間と長く続くにつれ、不可逆的な変化や可逆的な変化によって先ほど作られた形容詞の記述の累積、形容の表は無茶苦茶になってしまいます。
その上で、個を個であるとする為には3つの解決策があります。1つは変化する前の個と変化した後の個はだいたい合っているとする事です。
90%同じ形容が出来るならば同じ人物であると。
しかし、これは例えば老齢に差しかかった時と若い年代の時分をおそらく同じ個であると語る事は出来ませんし、その割合もあいまいである為に、1%でも同じであれば同一人物であるとすらできかねません。
もう一つは、その形容詞の重要な部分が一致していれば同じであるとする事です、これは明らかに魅力的です、例えば先ほどの例を繰り返すと、「彼女は気が強い(中略)彼女は怖がりだった」
などの本質的で支配的な属性、一部の重要な属性が一致していれば全く変わらないとする事です。
しかし、これだけではおそらく不十分だと考えられます。
何故ならば、このような重みづけは時間によっても変動し、また視点によっても違うからです。
3つ目の解決策については、その形容詞ごとの因果関係を考察する事です。その形容詞の表が同じであったとして、同じ個であればその形容される事象に時系列的に矛盾を生じる事は無いだろうからです。
例えば、特定の時点での彼女は鰹のたたきが好きだと形容することが出来たとして、彼女はαケンタウリで生まれた、と別時点で形容される事には矛盾が発生します。
αケンタウリには鰹はいません。
αケンタウリに現生人類はおそらく行けませんし、行くときに鰹は持っていきません。
2004年に生まれた人間がαケンタウリで生まれる事は出来ません。
このように、形容詞ごとの差に矛盾が無い上であれば、同じ個であると判定する事が出来ます。
また、この事例のように矛盾が生じるかどうかは、どちらか片方が先でどちらかが後である必然性はありません。

ここで、例えば2人の人間がいたとして、それ以前に生まれた1人からどちらが成長したのかわからない、それ以前に生まれた個がどちらになったとしても形容された表現と矛盾が無いと言う事例があるとします。
つまり、フビライハンが元軍の将軍の息子ではなく、源義経だったとしても問題が無い(歴史的には問題があるでしょうが、そのような例があるとして)と言った事例の話です。
一見してこれは3つ目の解決策を排除するように思えますが、そのような事はありません。
何故ならば、これらの2人は本当はどちらであったのか全く判断が出来ないからです。その本人の主観的な自己に対する形容詞では全く異なるでしょうが、例えば記憶喪失のような事例もあり、そこにおいての個は連続的(記憶喪失からの記憶の復帰などを考えたとしても、別人と考えるのは合理的ではありません)であると出来ると考えられます。
また、このような事例から個の自己同一性にはその個自体、二元論的に言うところの魂は一般的には必要ないとする事が出来ると考えられます。

さて、自己同一性を表現するときに視点の違いと言うものは存在し、それに伴う解像度も存在するとしても、それは時間的変動と同じように、量的な変動に過ぎず、絶対的なものではありません。
逆に言えば、特定の個人に対する解像度が低く、形容できる表現が限りなく少ないような認識において、その特定の個人の自己同一性、個たらしめる何かは存在しないとする事が出来ます。
これはおそらく我々の普遍的な実感とも結びつくはずです。
道端を歩いている人の個性などと言うものは(だいたいの人々の中では)存在しないからです。

では、その形容詞の表と向き合う現物としての身体性と言うものはどのような意味を持つでしょうか。
形容される個には身体がある事が望ましいですが、必要不可欠ではありません。
例えば小説や戯曲や漫画やアニメーションのキャラクターには個がありませんが、個はそうであると形容することが出来ます。
また、死後に個がこうであると形容される事も、また多くあります(特に著名な歴史人物など、真逆の形容詞を併記される事がよくあります)
しかし、個は無から生まれません。自己同一性は殆どの場合自己の専有物です。では、個人における身体性の意義とはなんであるかと言うと、二つの意味があると出来ると考えられます。
一つはその形容される特徴としての身体、例えば私が高身長である事や、痩せていると言う事を形容するための間接的な意味としての身体です。
これについては、身体である必要性はありません。究極的にはそうであったと言う形容詞のみが必要であり、身体性自体は必要がありません。
例えばソクラテスはパンクラチオンが得意であり、戦いにおいては殿を務め奮戦したそうですが、しかし非実在説があります。身体性があったとされることが必要であり、ある必要はないのです。
もう一つは意識を持つ肉体としての身体です。
人間には意識があります。自由意志が存在するかは別として(おそらくないでしょう)何らかの行動に対する反射が可能であり、主体的に思える行動が可能です。
ではこれがどのような意味を持つかと言うと、個人の形容詞を変化させうる元凶になりえると考えることが出来ると可能です。
昔の独裁者が蘇生する政治小説がありましたが、そのような事例では最初に肉体を持たなければ発生はし得ません。
死人は自己に対する評価、形容詞を書き換えることが出来ません、そのように形容される個としての身体を持っていなければ、その形容詞が変化する可能性を実現する事が出来ないからです。
その変化における意識の役割がどの程度大きいかについては不明ですが、個が個たりえ、自発的に形容を行われる個としての変化、付記、現象を生み出す事については意識が必要であると出来ると考えられます。
さもなければ、形容詞を付与されたり排除されたりする事については、他者に依存する他ありません。
架空の人物の自己同一性、個をあまたの形容詞で表現する事によって現実の個と変わらぬほどのものを作り上げる事は可能でしょう、しかし、それが自発的に変化する事はありません。
1分後、1時間後、1年後であっても何らかの他者によって訂正されなければ存在はありえません。

では、仮に架空の人物に意識を付けるとしたらそれは新しい個になりうるのでしょうか?
技術の発展は意識の成立の基盤を解き明かす事も可能であり、個たりうるそれに意識を付けてしまえば理想的な人間を量産できるのでしょうか?
私はそうは思いません。
何故ならば、世界において一度切りである属性、物質的に制限されうる属性が存在するからです。
しかも、それは個人を規定するにあたり、非常に重要な地位を占めます。個人を形容するときに、生年月日や生まれた場所は重んじられますが、それは個を個たらしめる有限性、個を集団から隔離する歯止めだからです。
仮に産まれた場所が殆ど同じであり、生年月日を規定しない個人を量産したとしても、おそらくその過程でロット番号などが必要になるでしょう。
そして、それは所謂個を個たらしめるもの、個性、自己同一性になりえます。そして、それは2つの個体で異なるでしょう。

仮に、それら全てを排除することが出来たとして、それを生産するとしても、やはりその中で枝分かれは発生し、よって直ぐに矛盾が発生し、個が個なる必要性を持つでしょう。
それらを共用することが出来るならば、それは群体であり、群体としての個性、生産された開始時期を持たざるを得ません。
よって、架空の人物は自己同一性があり、個である事は出来ますが、主体的な意識を持つ個である事は出来ません。
仮にそれを生み出そうとするならば、それは人間を1から作る行為と大差が無くなってしまうでしょう。
このような個を個たらしめる根拠、個と一対一で結びつく属性の恣意性はこれにおいて問題になりえるかどうかですが、無いとすることが出来ると考えられます。
前述したように形容詞が恣意的であっても、やはり本質的には関係が無いと考えられます。
何故かと言えば、この自己同一性を認識するのは我々人間であり、例え万能の神が個を形容する形容詞の表を生み出したとしても、その解釈については個を挟むしかないからです。
そして、解釈に意味は絶対的に必要ではありません。
彼は○○と言う人間である、と特定の人間が形容されたとして、それが形容された事が重要であって、○○、の意味については恣意的であっても問題はありません。
○○がその世界での偶然生み出された暦で地球がそこから10^10回回った時に生まれた人間を表すとしても、サイコロで教義が選ばれた宗教の敬虔な信者を意味するとしても、やはりそのように形容された事が問題であって、偶然である事は問題にはなりません。

では全てがこのようであれば、形容とは無意味に過ぎないのではないかと言う風におっしゃる方がいらっしゃると思われますが、そのような事はありません。
何故なら、大多数の形容詞は物質的基盤を持つと考えられるからです。
つまり、彼は林檎を食べる事が好きだと形容することが出来るとして、リンゴのDNAを付記しておけばそれは再現が可能で、そこに偶然さが関わる余地はありませんが、偶然付記された形容詞と言うものはその独自性から言って珍しく、なおかつ現実に対する強制力がないものであるので、その個を表すにあたっては再現出来うる物理的な現象にその表現を帰する事が可能だと考えられます。例え本質的に意味がなくとも、再現が可能であれば我々はそれの意味を深く問う必然性はありません。

 また、このような自己同一性の視点から立つことにより、個性をより深く考察する事が出来ると考えられます。
つまり、特定の属性、形容されるそれだけではなく、何らかの形容詞と形容詞が個人において結びつく事、自己同一性の中の関わり合いこそが個性だとする事が可能だからです。

 ではこのような自己同一性を我々はどのように実感しているのか、このように自己同一性を言い換える事ができるとしてもそれは客観的なものなのか、感情的なものなのか(直感的なものなのか)
明確な定義づけが可能なものなのか、曖昧なものなのかを解釈するにあたり、二つの視点に立って考える事が出来ると思われます。
記憶と反応です。記憶と言うのは自己はこうである、と定義するような自己認識を多く持っています(これは自己同一性ではありません)
そしておそらくこれは当人の中である程度の定義づけがされていると考えられます(例えば私は身長をcmで覚えているわけですが、cmはフランス革命によって成立したメートル法を基にしている事を知っています)
直感的な自己同一性とは何なのかと言うと、これはおそらく外在する視点でなければ判断が難しいと考えられます。
人間は時折自分でも思いもしない事を行うことは我々の周知の通りだと思われます、但し、人は人を理解したと勘違いしやすいですので、理想的な視点でなければ判断は困難になる、もしくは限定的なものになると出来るかもしれません。

 ともあれ、そこで表現される個と言うものは外部からの刺激に対する、殆ど無意識的な、もしくは思考を必要としない価値付け、条件反射、情感、そのようなものであると考えることが出来ると思われます。
例えば人から殴られた時に、あきらめるのか果敢に立ち向かうのか、もしくはやさしくされた時に相手を殴るのか、はたまたそれを嫌悪感と共に断るのかなど、人間には様々な反応があります。
我々が一般的に言う個人の性質、自己同一性についてはどちらがより本質的なものか、どちらがより基盤において安定しているのかを考慮する場合、後者であると考えられます。
何故かと言えば、記憶するにあたってもその定着や受け取り方については個人の反射、情感のようなものが大切でしょうし、定義づけもまた同じであるからです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?