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体験記

2023のまとめがとてもじゃないですが年内では追いつかず、年末は実家でテレビを見ながら亀ののろさでポチポチnoteを進めていましたが、その翌日は令和6年1月1日に某大地震に遭いましたので、2023まとめ(自己満)は一旦置いておいて、まずはその被災体験をまとめてみたいと思います(自己満)。

先に要点だけ言うと、私の実家辺りの地域は震度は大きく、あちこちで家の崩壊・地割れ・断水などの被害はありますが、大きな津波被害はなく、孤立もしておらず、幸い生命の安全は確保して生活していけるくらいの被害の地域でした。

もっと深刻で大変な地域があるのは重々承知していて、そちらの地域と比べると&発災翌日には被災地を抜け出して関東の自宅に帰ってきてしまった私個人としては、大した経験はしていないのかもしれませんが、それでもやっぱり私の人生の中ではかなり貴重な経験をしたので、今回のことは忘れないように、記録しました。

以下、自分の備忘録として、つまらんところすらもなるべく詳細に書いたので、超超超長くなります!普段から要約する気のない駄文長文を書いてますが、多分今回はダントツ過去最長かと思います!一応目次はつけましたが、覚悟が必要な量です。……と言っておいてなんですが、以下長文で書いていく内容とほぼ同様のものは自分の個人的な手書き日記にも残してあるところ、もし、もしできたらあわよくば、くらいで、誰かに見てもらえたらな……、という気持ちもあり今回は改めてnoteにも書き起こしました。膨大すぎる長文駄文を書いておいて本当に無責任なんですが、本当に時間のある方、気が向いた方、興味を持ってくださった方がもしいらっしゃいましたら、少しずつでも一部でも飽きるまででもいいので、よければ読んでくださると嬉しいです。


令和6年1月1日

地震前

関東で一人暮らしを始めてから8年目にして、実は初めての年末年始の帰省。お正月に祖母宅に親戚で集まり(と言ってもこぢんまりと、伯父・伯母が来たくらい)、祖母の多すぎる手料理を食べるというイベント。昔は当たり前のことでなんとも思っていなかったけど、最近はずっと帰省してなくてスルーが続いていたので、久しぶりで実は密かに楽しみだった。15時半、父・母・弟と3人で祖母宅に着く。祖母と、伯父・伯母はもう家にいた。お昼は実家で食べてきたけど、お菓子か何かを祖母が出してくるのでそういうムーブが貴重な私はありがたく戴いたりした。


地震発生

お茶の間で近況ともつかない話をだらだらとしていた中、16時過ぎ、それぞれの携帯電話が一斉にうるさく鳴り出す。心臓に悪い緊急地震速報。本当に苦手な音で身構えながらも、心のどこかでは、どこか遠い場所の地震かなとか、驚かせといて実はそんなに揺れないのではと、他人事のように甘く見ていた。そんな矢先、人生で経験したことのない横揺れ。地面ってこんなに激しく動くんだ!?!?祖母宅は炬燵とかそういう低い卓なので頭を隠す場所もなく、でも重心は低くして必死に卓の脚を握って、長い揺れが行き過ぎるのを待つ。

やっと揺れがおさまり、ふと、父がいない。みんなで叫んで居場所を探す。父は昨年とある病気の後遺症で運動性失語症になりうまく言葉が出てこず、病気と関係あってかなくてか動作も若干緩慢気味で前よりも良い意味で丸くなってポヤポヤした印象(認知低下とかではなく印象が(?))。んなことはいいんですが、そんな状態の父の居場所がすぐにわからないとか、茶の間にいる私たちよりも何処か状況が大変な場所にいたらどうしよう、助けも呼べるかわからないし、うまく動いてその場から脱出できるかもわからないし……。なんてことを一瞬にして不安に思ったら、そんな父は外にいたようで(何故!?)、「おぉー」と言葉にならない声を出しながら歩いて私たちのところですぐ来てくれた。無事で本当に良かった……。

そうしたら父が「これ」と祖母宅前の草むらを指差す。見ると、草むらの中に切れた電線が垂れて、端から火花が出ている。それを見て焦った私は、もう電気だとか分からず、ただ、火だ!燃えてる!こんな大地震の直後火災にでもなったらたまったもんじゃない!!と思う。地震前、祖母が私たちにどれが飲みたいかと必要以上に卓に並べていた500mlジュースの存在を思い出し、すぐとってきて電線の端の火(花)めがけて流しかける(今考えれば危険すぎる、絶対絶対真似しないでください)。まあ当然消えないわけですが。消えない!どうしよう!!とパニックになる私に更なるトラップ、気がつけばスニーカーは脱げ、靴下とお気に入りのワンピースの裾が、硬い系植物だか鉄線的な金属か忘れましたがそういうサムシングに引っかかり身動き取れず!なんでー!?(泣)となりながらも力づくでトラップ抜け出す。そうしている間に、母が電線の端を近くの水たまりに浸けている(今考えれば危険すぎる、絶対絶対真似しないでください!!Part2)。まじでやばいけど、一応火(花)は消えているようで安心(?)。

少しだけ冷静になってから消防に電話をかけてみるが、まあ当然繋がらず。電話片手に辺りを見ると、他のご近所さんたちも外に出てそれぞれにどうしたらよいのかと混乱している様子。防災無線では大津波警報だと言っている。今よりまだ幼い頃にテレビで見た悲惨な津波被害のイメージが脳裏に浮かぶ。そう、今は何よりとにかく高台に避難しなくちゃいけない。伯父に相談して、提案された近くの高台に避難することにする。避難の時は車は使っちゃいけないと聞いたことがある気がしたけど、祖母宅も海から遠いわけでもなかったし、今行きたい避難先も歩いて行ける距離ではなかったので、母号と伯父号の車2台に分かれて避難することとした。電線にもご近所さんたちにも、申し訳ないけど今は気を配る余裕はなく、自分たちはどうか助かれと祈りながらすぐに車を走らせる。


仮避難

母号は私が運転。地元なのに土地勘の無い私は助手席の母に道を教えてもらう。みんな同じこと考えているのか、同じ方向を目指して車を走らせている。そしてあちこちで地割れ。車線無視して地割れを避けながらドキドキしながら運転する。運転中、友達のグループラインで心配の連絡が入ったよう。絶対勝つ、生きて帰る、と、勝手に力をもらう。

幸い大きな渋滞もなく仮避難先に到着。車ゾロゾロ。やっぱりみんなここを目指していた様子。ただ、ここはとある大きめの病院。病院の玄関ではスタッフの方が「ここは避難所ではありません。これから救急の患者様がたくさん来ます。院内には一切入れません。避難したい方は避難所に避難してください」ときっぱり。そりゃそうだ。でも、逃げてきた大勢の人たちはその辺をあてもなくうろうろ。私も、ここは大事な大事な医療現場だから、院外の庭とは言えずっとここいるわけにはいかない。しかも、これからだんだん日が暮れて、暗くなるし冷え込んでくるのはわかってる。病院のためにも自分たちのためにも早めに次の避難場所を探して移動しないといけない。そう頭では分かりながらも、余震や状況のわからない津波の恐怖に怯えながら、ただ茫然と、その場から動けない。

スマホを開くと、先ほどとは別に複数の知人たちから心配の連絡が入っている。SNS上では心配の連絡はありがた迷惑だという意見もあり電池の心配もあるからそれも理解できるものの、私個人としては知人たちからの心配の連絡は本当に嬉しかった。人からのメッセージでこんなにも支えられ救われ勇気になることは今までなかった。感謝感謝感謝。それこそ電池の心配などしてあえて連絡しないでいてくれる知人たちもいたかもしれない、そんな知人たちもいたとすれば、感謝感謝感謝。いらぬご心配をなくすためにも安否を知らせる簡易的なインスタストーリーを投稿した。そのストーリーに対して、本当に心配だった、無事で良かったとメッセージをくれる知人たち、無言でリアクションだけ押してくれる知人たち、感謝感謝感謝。

スマホを見たり、そわそわしたり、茫然としたりを繰り返していると、気づけば日が暮れ始めている。電波状況が悪く、電話番号しか知らない伯父とはどうしても連絡がつかず、とりあえずうちの家族だけで次の避難場所へ移動。


仮避難2

インターネットで避難場所を調べると、パチンコ店が避難場所になっている。パチンコ店って建物大きいし避難できるかな、祖母宅から病院に向かう途中も別のパチンコ店に入っていく車もいたし、と思い車で移動。

着くと、車も人も少ない。店の前に店員さんらしき方達が4、5名。店内は地震の被害で散乱していて避難できず、立体駐車場には避難してもらっていいけど道に段差もあるから歩いて登ってもらう方が安全で確実かも、駐車場なので空調は効かない、と。それならまた別の避難場所を探した方がいいと思い諦める。図々しいけどトイレは貸してもらえるかと聞けば、使っていいけど水は出るかわからないと。逆に水出るかわからないのに貸してもらっていいんですか?!と思いながら、でもこんな状況で何も遠慮していられず、本当自分勝手なんだけど家族みんなで貸してもらう。店員さんの言った通り、断水。大変な中、汚すだけ汚して本当にごめんなさい……、普通じゃ考えられないよね……、ごめんなさい……。申し訳ない気持ちを抱えつつ、店内の床に散らばったパチンコ玉たちに気をつけながら店を出て、次の避難場所を探す。次に目指すは某体育館。伯父とも連絡がつき、それぞれの車で向かうことにする。


避難

地割れ、通行止めなどありながらも体育館に到着。様子を見に館内に入ると、偶然高校時代の後輩のお父さんが(何故か知ってる)。娘さん=後輩がここで働いているとのこと(?)。後輩もいた。久しぶりに会うのがこんな時こんな場所になろうとは……。でも知っている顔がいてちょっと安心、心が和らぐ。話を聞けば、ここは一応避難場所に指定されているもののはっきり安全性も確認されてなく、館内も一部崩れている箇所もあって、今現在はまだ避難場所としては機能しておらずトイレ貸し出しのみ。各々車にいてもらう方が安全だと。なるほど。結局車。でもトイレ貸し出しだけでもありがたい……。なぜかまだ水も流れる。

車に戻って家族に聞いた話を報告。そんなわけで、トイレ以外はほとんど家族みんな車内で長い夜を過ごす。

伯父号も偶然近くに停めていたようで、気持ち的にも安心。時々向こうの様子を伺いにいく。伯父家族にはワンちゃんもいる。非日常でとんでもないストレスだよね……、辛いよね……、と思いながら。伯父・叔母・祖母とも軽く話をし、また後で、と挨拶して、我が家の母号に戻る。

相変わらず携帯電話の緊急地震速報や余震は続く。なんか、だらだら止まらないしゃっくりみたいな?もういいよ、疲れたよ、みたいな……。まぁしゃっくりにはない恐怖もありますが……。車内はNHKラジオ。情報収集でもあり、地震当日夜の頼もしい精神安定剤でもあった。アナウンサーの方の口調が、優しくて、あたたかくて、心強くて、頼もしい。こんなどうしようもない夜に、ずっと私たちのそばで片時も離れず寄り添ってくれる。知人たちから連絡をもらったときのように、本当に救われ、支えられ、希望だった。そして割とこまめにエコノミークラス症候群の注意喚起と体操を促してくれて、精神的のみならず体の健康面でも多くの人が助けられたんじゃないかと思う。「一緒にやってみましょうか。まずは手首を……」と、この時もやっぱり寄り添ってくれて嬉しかった。

時間が経つにつれて、余震も少しずつ落ち着いてきた。祖母宅からそのまま避難しに来たので実家の様子はわからず、今頃どうなってることだろう、無事私たちの帰る場所はあるのだろうかと思いながら。大津波警報は消えないけど、実際津波は来てるんだろうか、どんな状況なんだろうかと思いながら。運転席から見える被災当日の地元の夜景を眺める。明かりはついてるけど、これって日常と比べると少ないのかな。たまに遠くの道に自家用車や救急車が走っているのが見える。さっきまで重い雲が広がってたけど、気がつけば晴れ渡っている。冬の夜空は本当に澄み渡っていて、腹が立つくらい綺麗な星空と月。せっかく久しぶりのお正月帰省だったのに、年明け早々とんでもない試練を与えられたもんだな、この闘いはいつまで続くことになるんだろう。

目の前の心配事も色々ある。スマホの充電問題。もう10年選手だけどモバイルバッテリーを一応持っていて、結果的に一晩は越せた。そして関東にいるパートナーが心配してくれて、必要そうな情報を調べてくれてまとめて送ってくれた。自分で色々調べる分の手間や労力や電池を節約できて本当にありがたかった。ラジオだけでは得られない情報も知れてありがたかった。感謝感謝感謝。そして薬問題。私は薬を財布に忍ばせてたので大丈夫だったけど、父と弟は流石に携帯していなかったようで定期薬は実家にあり、津波の心配もあるから今は取りに帰れないし、飲めない状況。父は「だいじょうぶ」と言うけど、本当に信じて大丈夫か?(笑)さすがに薬の名前までは出てこないし、わからない。そして視力問題。私は2ウィークコンタクトをしてたけど、メガネも、ましてやコンタクト洗浄液やケースも携帯してないし、この夜で使い捨てて、実家に帰るまで視力は壊滅的。そもそも実家のメガネが潰れたりしてたらどうしよう!?交通手段とか以前に、視力のせいで関東の家に帰れないとかも最悪あり得るかも……。そしてガソリン問題。まだ半分弱残ってるけど、この夜駐車場で過ごしてるだけで1目盛減ってドキドキ。しかも今日だけじゃなくて今後しばらくガソリン補充できない可能性を考えると、どこまで節約しなくちゃいけないんだろう。でも暖はとらないと死活問題だし……。そしてトイレ問題。我々が到着してすぐは水流れてたけど、やっぱりすぐ断水したらしい。トイレは見たことないカオスな状態。でも、時間をおいて度々使いにいくと、整理されてたり、使い分けの説明書きが貼られてたりしてる。さっきの後輩とか係の方が、大変な中、こんな大変な状況を整理してくれてるんだと思う。自分のことでも大変だろうし怖いだろうに、こんな中でも市民のために動いてくれてありがとうございます。水も出ないのに、中にはこんな汚い仕事まで。本当に感謝感謝感謝では言い尽くせない感謝感謝感謝。そして飲料問題。手持ちの飲料は無し。体育館の自販機も、こう言うときだしてっきりすぐ売り切れだろうと思ったけど、意外と残ってる。辛いしギリギリで先のことがわからないのはみんな一緒だから、お互いを気遣ってみんな必要最低限だけ買うのに留めてるんだろうか。こんなときだからと買い占める人たちがたくさんいてもおかしくないのに、みんななんて優しい……。食べ物もないので、糖分のある飲料を選んで家族分数本買う。

そろそろ日付が変わるというころに、我が家も寝る支度に入ることとした。寝られるのか……って感じだったけど。断水でトイレがカオスなのはもう仕方ないから、気にせずトイレは我慢せず行くこと、ラジオでも散々注意喚起されてたけどエコノミークラス症候群が心配なのでなるべくリクライニングを倒してフラットに近い状態で寝られるように、荷物の場所とかも工夫してなるべく体に負担をかけないように、なんでも大丈夫大丈夫と思わずこういう時だからこそ安全最優先で、ガソリン消費が心配なのでエンジンは切るけど寒くなったりラジオが聴きたくなったらエンジンかけるのですぐ言うように。など伝えて、私は運転席、母は助手席、父と弟は後部座席で、初の車中泊をすることとなる。


令和6年1月2日

16時の大地震から数時間経って余震も割と落ち着いてきてはいたものの、それより寒さと窮屈さが予想していたよりしんどめで、普段睡眠問題言うことなしな私も、この日ばかりは1時間〜1時間半に1度は起きました。冷え込みがきつくてエンジンをかけ、おそらくその度に車内の家族も起こし(そもそも家族たちが寝られていたのかもわからないけど)、暖をとりながらNHKラジオで情報を聞き、ある程度暖まってきたらエンジンを切り、寝て、また窮屈で目が覚め寒さに耐えられなくなりエンジンをかけ……、の繰り返し。あとから気づいたけど前より後部座席の方が暖かい空気が回りにくかったようで、運転席に座る私よりも後部座席の父や弟の方が口に出さないだけで寒い思いをしていたかもしれない(服装的には私が1番防寒できてなかったので、おあいことさせていただきたい気もするが)。

朝6時前、また寒くて目が覚めて、エンジンをかける。早朝はさすがにNHKラジオも報道はお休みしていた。いやいや昨晩はずっとお世話になりました、休んでください。そしてその間なぜかラフマニノフが流れ、終わると上白石萌音さんの小作品朗読が流れる。久しぶりに地震と関係ないものを聞いて、日常風を一瞬感じられた(日常の早朝NHKラジオを知らないけど)。そして山並みが薄ら見えるくらいに少しずつ空が明るくなってきている。もう二度寝、ならぬ、何度寝?はせず、起きようかな。初めての家族被災車中泊の夜明け。初日の出ならぬ、1月2日の日の出。昨日の星空同様、腹が立つくらい清々しい朝の空。超気持ち良い。はぁー、なんだこの状況、と思っていると、ラジオから唐突に軽快な音楽が流れ始める。6時30分。ラジオ体操。子供の頃からよく聞いていたラジオ体操の歌が、この日は全く違った意味に聞こえた。「新しい朝が来た 希望の朝だ 喜びに胸を開け 大空あおげ ラジオの声に 健やかな胸を この香る風に 開けよ それ 一 二 三」。不思議なもので、これだけで涙が出そうになった。私たちは、これからいろんな試練に立ち向かい、闘い、乗り越え、またこの場所でみんな元気に会うんだ!前向きな覚悟がついた。ぼんやりそんなことを考えてしまってラジオ体操自体は出遅れてしまったので、数時間ぶりに車の外に出てラジオ体操と関係なく適当に体を伸ばしてみる。気持ち良いー。そんなことをしてたら、伯父がワンちゃんを散歩させてる。不安な夜をよく乗り越えたね……。挨拶しがてら、伯父と今日の今後の動きを確認。大津波警報も、この時には確か注意報にまで警戒度は下がっていた。伯父伯母祖母は祖母宅の片付けへ。我が家は実家の様子を見に行って、早めに区切りをつけてその後祖母宅に向かうことに。

令和6年1月2日の朝焼け
令和6年1月2日の朝焼け


令和6年1月2日の朝の月
令和6年1月2日の朝の月


実家確認

私はコンタクトを使い捨て視力を失ってるので、母に運転してもらう。その間私は実家に戻って回収すべき避難グッズをリストアップしてたので、外の様子を見るのはすっかり忘れていて避難所から実家までの道の様子がどうだったかはあんまり覚えていない。

実家に着く。外観上ぱっと見は異常無し。よかった……。そして、無事家の中に入られるのかどうか。鍵は、……回らない!?と一瞬焦ったけど、何回かクルクル試したら上手いことハマった感覚があって無事回った。そして、引き戸。ガツガツっと止まって、……開かない!?と一瞬焦ったけど、前後に揺らせば上手いことハマってすぐ元通りスムーズに動くようになりました。よかった……。てなわけで無事家には入られた。さすがに物は散乱。適当に壁に立てかけてあった楽器たちも悲惨に倒れてかわいそう……。でもネックが折れたとかそんな壊滅的な壊れ方はしてなくて一応無事そうでよかった!そして食器類は何故かほとんど無事。特別地震対策してたわけでもないだろうに、本当ラッキー。他にも割れ物類もほとんどなく、大きな危険なく家の中も歩けるし、物もあんまり無駄になってなさそうでよかった。そして視力問題。リビングに置いてあった帰省の荷物は色々床に落ちたり下敷きになったりしてて眼鏡ケースもぐにゃんと変形してたけど、なんとここでもラッキー、私のズボラっぷりが功を奏しました。洗面所のちょっとしたスペースに適当に乗せておいた裸のメガネが洗面台シンクにコロンと転がってて無事!よかった!視力問題解決。ちなみに帰省の荷物たちも、これまたラッキーで使い物にならなくなったのはメガネケースくらいで、iPadとかスーツケースも大きな被害なく生きてる!トータル、家の中の散乱っぷりはすごいのに実際物壊れたりとかはほとんどなくて本当不幸中の幸い。よかったぁぁぁ。

そして今思えば私は過剰に余震を警戒しすぎだったかもしれないけど、なるべく無駄な時間なく最低限やるべきことを済ませて、家を出て祖母宅に向かおうというモードだった。(時系列前後するけど……、)家に着いてまず各々の携帯電話を充電。ガスの元栓は切る。(水道止めたりするの忘れてた!(知らなかった))そしてリストアップしておいた避難グッズたちを回収。車に物を運んでたら、最近隣に新居を建てて引っ越してきたらしい小中時代の同級生に会う(隣に同級生が越してくるだけでもすごい偶然だけど、この人小学校時代になんの前触れもなく私の腹を殴ってきた(別日で2度)人。力も強くて痛いし、意味わかんなくて恐怖だったけど、当時誰かに相談したかどうかもよく覚えてないし、母に話したかどうかも覚えてない。知らなかったとしてもわざわざ今掘り返して話すことでもない。中学の頃にはもう落ち着かれて、この日も数年ぶりに会ったけど普通に穏やかに話してえらい)。もう家庭もあってバブーもいるのかな、本当大変だな……。それこそ水問題とか死活問題なのかな……。

余震もまたいつくるかわからないので家の中の片付けはまた今度、ほぼノータッチで散乱したまま、必要なものだけ回収して、早めに切り上げ祖母宅に向かう。改めて地元の街の様子を見たけど、やっぱり地割れはあちこち。通行止めもあり。地面濡れてる場所もあって、液状化ってやつなのか、どっかから水漏れたり(?)してるのか。海の近くだけど、昨日の大津波警報の時このあたりはどうだったんだろう。

無事祖母宅着。昨日の電線、火花は出てない!とりあえずよかった。改めて見ると、電柱は傾き、家の前のコンクリは割れ、ガラス戸は外れ、植木鉢は倒れ、家の中のテレビは倒れ、茶の間と台所の間の短い廊下の床は抜けかけてて、なにより台所の大きい食器棚が倒れて足の踏み場がないくらい割れ物が大散乱。どこから手をつけたら良いのやら……、途方にくれる悲惨な状況だけど、伯父伯母祖母は少しずつ散乱した食器たちを片付けてる。ちょっと手伝ったけど、そんな大人数入れる広さでもないし、そもそも床食器だらけで足の踏み場ないしで、あんまりお手伝いできず……(言い訳みたいだ)(言い訳かも知れない)。食器を整理するために段ボールが欲しいと言われたので、スーパーやドラッグストアの余りダンボールをもらえないかとのことで近くのお店に出かけてみる。けど、当然、どこも店は開いてない。そりゃそうだ。なんの手柄もなく帰ってしまいましたが、その短時間の間でも食器はかなり片付けてくれてた!本当にありがとうございます……。大きい食器棚はまた余震で倒れるのも怖いのであえてそのままにしたけれど、台所の床はある程度片付いて、ちょっと一息つくかんじに。

ワンちゃんと戯れたり、だらだらおしゃべりしたり。今日もお天気。地震がなければあたたかな最高のお正月だったのに。さっきからなんらかのヘリが青空を飛んでます。自衛隊らしきヘリや車もいます。そんな中、祖母はいつの間にか米を炊き始めてたらしい。昨日水に浸けておいた米がそのままでもったいないから、と……。そんな場合じゃないよ!って総ツッコミだったけど、今思えばそこで炊飯した祖母の判断はよかったのかも。炊き上がった貴重な温かい白米は、各々ラップにとっておにぎり状態にしていただく。本当は昨日・元日夜のご馳走になる予定だった、祖母が大量に準備してくれた煮物や惣菜たちを、すっかり冷え切った状態でいただく。昨日のお昼ぶりのごはん、丸一日ぶり?嬉しいし、空腹なはずだし、いっぱいいっぱい食べたかったのに、この時になって初めて自分が食欲無いことに気がついた。なんだろう、食べたい気持ちは山々なのに体が受け付けてくれなくて、煮物もほんの3切れほどで気持ち悪くてもう食べられない、悲しい。あ〜、数年ぶりのお正月祖母宅ごはんが、まさかこんな形になるとは。

自衛隊ヘリと思われるもの
自衛隊ヘリと思われるもの

ちょっとお腹を満たし一息ついてから、最後もう一踏ん張り、ガラス戸が外れたところを対処療法的に対処。伯父が超ジャストサイズのビニールを祖母宅のどこかから見つけてきて、錆びた釘たちのマシそうなやつを打ち付け、ビニール引っ掛けて、下には重しを置いて、一応雨風予防。いつまで持つかわからないけど。これは伯父がいないと絶対できないことだった。感謝感謝感謝。

そうこうしていると、そろそろ帰りのことを考える時間。北陸新幹線はなんと15時台には復旧して通常運転再開。すごすぎる!感謝感謝感謝。。。問題は能登から金沢駅までどうやって行くか。加賀方面と能登方面を繋ぐ県内の在来線は、こちらは当然ながら運転再開の目処立たず。この時考えられた唯一の方法は、加賀方面に家がある伯父伯母が帰るタイミングで、一緒に同乗させてもらって金沢駅まで送ってもらうということ。申し訳無いながらお願いしたら、快くOKしてくださった。感謝感謝感謝。。。ただ、Twitterを見てると金沢駅は激混みのようで、駅の外にまで行列ができてるとか。金沢駅まで送ってもらったとて、無事新幹線に乗って関東の自宅で帰られるんだろうか……。でもここで送ってもらわないと、もう当面は能登を抜け出して関東に帰られるチャンスはやってこない!一か八か、その唯一のチャンスに賭けてみることにする。でも、私この状況で本当に帰っていいんだろうか?家の中も、地域のインフラも、きっとみんなそれぞれの心や頭の中もぐちゃぐちゃな中。今回は自分で言うのもなんだけど、私と伯父がいたからすぐ判断や誘導や行動をできたと思う。伯父伯母が加賀方面の自宅に帰り、私は関東に帰り。本来家族の中では一番しっかりしていたであろう父はうまく思っていることを言葉にできないし運転もできないし体調も心配、祖母は年齢を考えると超元気だけどとはいえ高齢、母はガラケー、弟はスマホだけど多分あんまり活用できてない。色々心配。だし、みんながこれからも恐怖の中インフラの整わない環境で非日常をこれからも生きるのに、私だけいつもと変わらないぬくぬくとした日常を送っていいのか、罪悪感のようなもの。そうやって考えてると、急に涙が出そうになってきた。それまでの約丸一日はずっと目の前のことで精一杯でそれどころじゃなかったけど、このとき初めて今の自分の状況を客観的に見られて今まで気づかなかった俯瞰での不安や恐怖や色んな物事を想う気持ちが顔を出して。泣きそうなのをなんとか堪えながら、察せられないようにしながら、私は本当に帰っていいのか、母に何度も聞いた。母は、大丈夫、帰っていい、私たちでなんとかなる、と言ってくれる。この選択が合ってるのかわからないけど、私はその言葉に甘えて関東の自宅に帰ることに本当に決めた。当面はうちの家族と祖母とで一緒に行動してもらうこと、また大きな余震や津波警報が出たらすぐ避難すること、ちゃんと栄養と水分は摂ること、うちの家族は情弱だろうから私で色々調べて有益そうな情報は伝えるし何か知りたいことがあったら連絡すること、別に特になくても連絡してくれてよいこと、など言い残して、うちの家族・祖母と別れ、伯父伯母の送りで金沢駅目指して出発した。


金沢駅へ

能登方面から金沢に繋がるバイパスがあるんですが、北の方は地震の被害が甚大で通行止め。通行可能なICまでは下道で向かう。やはりあちこちで地割れ。あと驚いたのは、道沿いに2軒ドラッグストアのゲンキーがあったんですが、どちらも営業していた!あとからツイッターで知ったのだけど、地震直後もかなり早い段階から営業開始していたらしい。すごい、被災地に元気をありがとう……!!そして、多少混みがちではあったもののそこまで深刻な渋滞はなく無事バイパスに乗れた。そこからはスイスイ。寝てていいよー、伯父伯母に言っていただき、いやいや申し訳無い……、と思っていたけど結局お言葉に甘えて寝させてもらった。車内の電源でスマホの充電までさせてもらった。そして金沢駅着。ロータリーは混んでたけどうまいこと裏道で時間かからずスムーズに下ろしてもらえた。おかげさまで第一ステージ突破!感謝感謝感謝……!!!!!

さてここから。うまく新幹線チケットを取れるのか。混み具合やら遅延やら、一体何時の便に乗れるんだろうか。えぐい混み具合で鮨詰め状態のまま関東まで帰ることになるんだろうか。そもそも今日中に無事帰られるんだろうか。色々不安なことはあります。まずスマホで新幹線チケットを調べる。するとなんと、長野乗り換えで指定席が取れる便がある!!ラッキーすぎて嘘かと思ったけど勢いでその便のチケットを取った。それから電光掲示板を見たら、結構20分遅れ、30分遅れがざらにある。私の便の予定はまだ電光掲示板に表示されてないのでわからないけど、まあそれくらい遅れるかな〜と覚悟。とはいえこの調子でいけば全然余裕で今日中には帰られそう!

ちょっと時間出来たな〜と思い、お手洗いに寄って、ついでに家片付け用にヘンテコズボン履いてたのをお気に入りのワンピースに着替え直した(地震当日に来てて、電線事件でトラップに引っかかったワンピース。あんな絡まり方して力づくで外した割にダメージ無さそう!)。いうてまだ時間あるよな〜と思ったけど、本来の出発予定時刻はそろそろだな〜と思って念のため早めに改札通ってホームに向かったら、なんと私の便はほんの数分遅れだけで出発すると!!何十分って遅れるだろうって余裕こいてたら乗り過ごしてた!いつも無計画人間の私、今日ばかりはちゃんと余裕持って動いてくれてありがとうグッジョブ!そして鉄道会社の皆様、ここまでの復旧の早さ、ありとあらゆる全てのことに感謝感謝感謝!


新幹線乗車

予想以上にすぐ来てくれた新幹線に乗り込む。無事ちゃんと座れた(関東→実家に向かう時は指定席とってたのに謎の人に座られてたハプニングあり……、まあそれは置いといて)!新幹線の中でもいろんなことが気になってずーっとスマホにかじりついて情報収集したり、SNSで知人たちの身のことやリアルな現場の様子を見たり、電池大丈夫そうな人とは連絡とってみたり……。なんかしかも羽田空港でも悍ましい事故があったっぽい?!(この時はまだ被災地支援に向かわれようとする海保機だったとは知らなかった……。)2024地獄の幕開けだ……、この一年どうなるんだろう、今がドン底でこっから上り調子であってくれと願うしかない……。色んな情報に頭も心も掻き回されながらもう耐えられなくて涙も溢れながら夢中でスマホにかじりついてたら、気がつくともう降車駅に着いていた!!!3席並びの窓側席からスーツケースの大荷物持って急いで降りさせてもらうという、通路側のお客さんお二人にはまじでご迷惑おかけしまじでごめんなさい案件まじでごめんなさいでした……。


帰宅

大急ぎでなんとかギリ降りられ、無事関東某県に戻ってきた!!改札抜けた先ではパートナーが待っててくれてました。この時本当の意味で緊張の糸が切れて、堰を切ったようにボロボロ泣いてしまいました。公共の場だけど、そんなこと気にしてらんなかったです。パートナーに車で家まで送ってもらい、無事帰宅。あったかい家。飲み物も食べ物もお風呂も布団も安心もある。苦しい生活と恐怖の中に家族を残して、私だけこんな安全で不自由ない生活を送ってていいんだろうかと、罪悪感に似た感情はまだ消えないけれど、でももう帰ってきたんだし、私はゆっくり休むことにしました。まだ食欲はあんまりないけどなぜかポテチは食べられたのでこれが夕食。



私のその後

この日の夜と翌日1月3日はパートナーも一緒に過ごしてもらいました。私はまたスマホとNHKラジオばっかりにかじりついたまますごい速さで時間が溶けていく中、パートナーは食事を準備してくれたり(少しずつ食べられるようになってきた)、お風呂を沸かしてくれたり、気丈に振る舞ってたつもりでもふとなんでもないタイミングで訳もなく涙が溢れ出てしまった時ただそばで寄り添ってくれたり、本当に感謝しかありません。

その更に翌日1月4日からは、予定通りに無事仕事初めをできました。職場でも、職員さん、患者さん、たくさんの人が心配の声をかけてくださって本当に嬉しかったです。私この方にも能登出身って話してたんだ?!&覚えてくれてるんだ!?ということがたくさんありました。本当ありがたい……。


家族のその後

あれ以降、実家の家族と祖母は、もう最初から避難所生活をしているようです。余震も心配だし、家の中もぐちゃぐちゃで初めから片付けてる余裕もないだろうし(それこそ余震でまた崩れて振り出しに戻るのもいやだし)、当面はそれで良いかも、と思いました。

場所は、1月1日の夜を越した体育館ではなく、別の小学校で避難所生活を送っているとのこと。体育館はだだっ広くて空調も効きづらい、プライベートも無い感じだけど、小学校は教室がたくさんあるので、空調も効きやすい、体育館よりは少なく数組ずつで生活できる、電源やテレビも数がある、ようです。

水は、この地域はずっと断水が続いてますが、避難所ではトイレの使い分けのシステムが出来上がってたりと、家にいるよりは何かと避難所の方が楽みたいです。とはいえシャワーや洗濯はしばらくできず大変だったみたいだけど、発災2週間後くらいには銭湯施設が浴場を無料開放してくれたり、隣町へ出かければコインランドリーが使えたりと、工夫すればなんとかなるようになったよう。最近は避難所にも簡易シャワー室もできたらしい。他、何かと生活に必要な水資源的な意味でも、飲用可能な井戸水(?)的な水を無料で分けてくれるところがあって、そういうのは最初数日はありがたかったと思うけど、そのあと公式の給水所が設置されたり、幸い孤立地域ではなかったので物資も早い段階から届いて飲料系も十分あったと思うので、本当トイレ入浴洗濯以外は特に不自由してないんじゃ無いかな(現地を知らず家族から情報聞いてるだけの私に言えたことじゃ無いですが……)。

あとは、1月3日の朝には食事の配給が始まったようで、食事には困らず。炊き出し、チェーン店のキッチンカーなど、どんどん豪華になってきてるみたい。

ガソスタ問題は、数日は営業店舗もかなり少なく、給油制限もあり、ガソスタ渋滞もかなり深刻だったようだけど、5、6日すればほぼ通常通りに給油できたとのこと。

道の地割れも、これは実際に写真で見たりもしてないしわからないけど、結構修復が進んでるとか。

つまり、トータル、たっっっっっくさんの方々のお力あって地元の被災者さんたちは生活できているようで、本当に感謝感謝大大大感謝!!!インフラ的な資源的な意味でもこんなスピード感で充足されていくとは思ってなかったし、たくさんの方々があたたかく手を差し伸べてくれて精神的にもとても支えられてるだろうし。私は残してきた家族たちを心配しすぎてたかな?と思っちゃうくらいで、本当によかった。自衛隊の皆さん、行政の皆さん、何かといろんな企業の皆さん、情報を報道してくれる皆さん、寄付金・義援金などの形で協力してくれた皆さん、メッセージをくれる皆さん、祈ってくれている皆さん、たくさんの皆さんに本当に感謝!!!ありがとうございます!!!

とはいえ、現地はまだまだ非日常でストレスだらけの生活であることには違いないと思うので、早く元の日常が戻ってきますように……、と今までもこれからも祈ります。家族とは今まで結構ドライな関係だったけど、今までを取り戻すかの如く最近はほぼ毎日母と連絡をとってます。私自身、こんなに家族や地元のことを想っているのは皮肉ながらも初めてです。これからも当面は毎日家族や地元のことを考える日々が続くことと思います。早く帰って、家族や知人たちに会ったり、地元の街や海を見たりしたいなぁ。



ほぼ1万5千字……。誰も読む気の起きない自己満長文記録でごめんなさい。なんか流石に最後まで読んでくれた方いないんじゃないかと思ってしまいますが、どこかちょろっとでも読んでくれた方、まさか最後まで読んでくれた方がいらっしゃったら!本当にありがとうございました。とても嬉しいです。皆様もどうかご自愛ください。早く世界中の一人一人に、平穏な日々が戻ってきますように、続きますように。

令和5年12月30日の地元の海
令和5年12月30日の地元の海

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