社会規範ではなく個人の中に男性性を見出す物語としての「薄桜鬼」
乙女ゲームと呼ばれるジャンルの中でも、特別有名な「薄桜鬼」をなぜか今になってプレイし
現代においても、と言うか今だからこそ素晴らしさが理解できる傑作だと知りました。
ここでは、男性の社会変革の中でのアイデンティティの遷移を描いた作品として「薄桜鬼」を解釈した感想を記します。
「薄桜鬼」では、幕末を舞台に徳川幕府が収める世で武士に憧れを抱き
新選組に所属することで、主君・居場所・立場・責務・信念を与えられた男性たちが
戊辰戦争により新選組が滅びゆく中、それまでの社会や新選組から得ていたアイデンティティを喪失する。
今作は新選組の行く末を見せる作品ではなく、新選組を失いアイデンティティをはく奪された男性たちが
主人公との恋愛を通し、社会や組織からではなく個人の中にアイデンティティを見つけ出す生まれ変わりの物語で、新選組終焉の先の人生を見せている。
それを通し、個人の幸福を叶え生きることと、社会の示す男性性に縛られた男性たちの解放を描く
あまり語られない、マジョリティ側の自分らしさの確立に深く言及した、貴重なエンタメだ
今作で登場する攻略キャラクターたちは、
剣を振るうことで自分の強さを見出していたが銃に敗北し
仕えるべきと思っていた主君は没し
志を同じくする仲間が空中分解し
居場所であった新選組も失われる。
武士は新たな社会に存在しないし、人切りは罪だし、武士としての自分は不要とされる。
それこそが自分だったのに。
彼らは、強さや志や自分がどこの誰であるかを、次々喪失していく中
それでも武士の道を貫き通して果てるか、別の自分を見出して生きる道を歩むか、二つの道がある。
今作が恋愛ゲームである必然性は、恋愛が社会でなく個人の中に自己確立をする方法である点にあり
愛し合った人と共に生きたいという思いが、自己確立のきっかけとなり
個人が幸福を叶えながら支えあえる社会形成を示唆することで、
現代を生きる私たちの価値観にかなった物語に押し上げている。
主人公である千鶴は、パートナーである男性と対話を重ねることによって、彼らの核心へと迫っていく。
千鶴が彼と紡ぐ会話は、千鶴とプレイヤーが男性キャラクターの魅力を知るための物だが
それ以上に男性キャラクター自身が己を知るために、一言一言、言葉を紡いでるように見える。
千鶴はいわば鏡だろう
社会的ステータスを失った自身の姿を信頼と肯定を持って映してくれる
本当の自分を受容されることで、彼らは生きる道を見つけるのだ。
このジャンルのゲームの定番であるルート分岐も、テーマを表現するために上手く利用されている
パートナーの男性を一人定め、物語後半で個別シナリオに遷移するオーソドックスな形だが
前半では新選組が比較的安定し存続している中で、相手を知り恋情を感じる程度に関係が発展する。
後半ではいよいよ新選組の存続が怪しくなり瓦解していく中、
パートナーとの恋愛関係がはっきりとし、新撰組終焉後の道を決めることになる。
後半の個別シナリオでは、キャラクターにより異なる決定が描かれ、多様な道筋がある。
これを上記の解釈に即して見てみると
アイデンティティや生き方は多様であり、各々が生きる道を見つけることで、インクルーシブを表現していると考えられる。
また社会が望まぬ方向へ転換しながら、その中であっても生きることは
社会の在り方と、個人の思想のすり合わせを観る意味でも面白い。
この10年ほどの間に海外のインディシーンを中心に
政治やジェンダーやマイノリティを描いたビデオゲーム作品が増加し
そういった視点でゲームを論じる人が増えた中
2008年に一作目が出たこの「薄桜鬼」も昨今のシリアスなテーマの作品同様
政治やジェンダーの観点から読み解いても興味深い作品なのではないかと思った。
何よりマジョリティ男性のアイデンティティクライシスを、救いのある形で受け入れて道を示す作品は、ゲーム作品以外でも貴重なので大事にしたい。
以下、ルートごとの感想。
全員分は書ききれないのでピックアップしたいもののみです
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