家族観差に横たわる実態についての考察と,接続回路としての物語への淡い希望

WEEKLY OCHIAI「家族のかたち」を見ながら書いた実況的な感想ログです.
本編を見ていなくてもなんとなくわかるように少し説明など整えて書いていますが,副音声的に読んだ方が多分わかりやすいです.
感想と意見がないまぜですがお許しください.


https://m.newspicks.com/news/5398098/
母体機能としての人間,テクノロジーによってイルカの親になれるなど境界が溶け得ると.
テクノロジーによる文字通りの新しい自然.
市場成立以後の市場化できないと"信じられている"のが家族.
家族,ひいては人間の多様性はインターネット以前も間違いなく存在しており,しかし世間的な規模感において接続は堰き止められ,潰されていた.インターネットの作用によってその存在らが,世間を超え社会へ直接的に繋がり得ることになり可視化の透明性(二次情報でなく一次のものにアクセスしやすくなった)が拡大している.

なるほど反対派は「伝統が壊れる」というらしい.幻想感がある.

やはり宗教感のアップデートをするのが必要ではなかろうか,西洋的な契約観念の個人への浸透が比較的薄いと思われる日本においては,逆にキリスト教的倫理から離れているので,より先駆的というか,完全に別観点からの切り口で「社会」の制度的包摂性の提示をでき得るのではないか.

先進国における未婚と離婚のバランス関係が「落とし所」の数値として安定してきているのは面白い,となるとやはり観念レベルでの他的視点は今受け入れられやすくなっているのかも?来るところまで来ていると先がわかるので.

ごっこ遊びとして主観的に疑似体験することで別視点の思想的なもの,あるいはそれへの寛容性がインストールされ得る?
つまり必要なのはここに接続するための回路(これは物語が担い得る役割の一つではある気がする).

カウンターカルチャーとサブカルチャーの関係性,予め存在していた必要性(シングルマザーの方がお父さんバンクを利用するなど)と,メインカルチャー(一般的核家族)側から見た肌感覚的リアリティの無さ(だがビジネス・発想として面白いという切り口は持ち得る,しかし他人事みは高い)の根本的な世界観の違い,隔絶.

しかしサブカルチャー的な形からメインカルチャー側の包摂性を緩やかに調教・拡大していく回路も必要ではないだろうか.

百聞は一見にしかずとのこと,ローカルな接触(おそらく肌的な認識)のポテンシャルは高い.

ゲイカップルが子どもを抱いていてもお父さんかな?パパ友?のように勝手に認識されるだろうと言う視点,こういうビジュアル的に違和感のないもの,言及しないことによりメインストリームと認識されているコンテクストとして誤認識される.僕はこの偽装によって浸透していける可能性を感じたが,これにより「埋没」が起き,カミングアウトによって子の環境に悪影響が及ぼされる可能性がある,とのことだった.

確かにギャップあるいは裏切りに近い感覚が与えられるとマイナスに働く可能性は高いのだろうか.

ここで僕が思い出したのはBTSがアメリカでウケている話.どこの記事か忘れたが,アメリカで人気のドラマに出てくるアジア人のキャラクター設定が「線が細くてダンスが得意」のようなものらしく,旧来のジャッキーチェンみたいなアジア人イメージと異なるものを出し,それがウケたことでBTSがウケる地盤ができていたのではないか,のような話があった.

(見つけました↓
https://www.asahi.com/articles/ASN9C43V4N97UHBI018.html

> 特に、高校の合唱部が舞台の大人気ドラマ「glee(グリー)」の影響は大きいです。このドラマは2009年から15年にかけて放送されました。登場人物の中に、マイク・チャンという名のアジア系の男子学生がいます。ダンスが得意という設定で、キレッキレのダンスを披露する姿がアメリカ中に流れました。この結果、「アジア人男性=カンフー」という見方は消え、代わりに「アジア人男性=ダンスが上手でかっこいい」という見方が定着しました。

)

実状の真偽はともかく,つまり触れる物語によって価値観の浸透を図ることが可能かもしれなくて――これは欧米から見たアジアという少し肌感覚の薄い対応関係で成立していることから――サブカルチャー的なジェンダー状況も,むしろリアリティに欠けている今だからこそ浸透の機会なのではないか.

これが悪目立ちして,かつての「オタクイメージ悪化」の変遷同様,石を投げられる程度に「中途半端なリアリティ」を獲得してしまうとその後の復帰が難しい.オタクの場合はアニメ・漫画コンテンツが付随しており,コンテンツ側の普及によってオタクイメージそのものの変容が結果として発生しているが(僕の10年前の感覚でもオタクは1クール4〜50本くらい見てるのが普通だと思っていた,デュフフコポォのコピペにあるようなオタク.今はもっとカジュアルだよなぁ),これがLGBTQとなるとコンテンツが根本的に付随していないので,もし悪化イメージのプロパガンダが発生した場合における別軸の復帰回路の新規構築方法はパッと思いつかない….

アメリカで起きてる妊娠中絶への意識における断絶のような,もはや世界観レベルでの隔絶へ流れていってしまうとどうしようもない.

社会的メッセージや政治的立場を可能な限り漂白して,LGBTQや新しい家族観念が「普通」である世界観の物語を,日常モノとして(つまりディストピアみたく反抗する話ではなく,単に世界観の地盤として)作成し続けることで,事前に復帰回路を多量に用意しておくのがベターな案の一つではないか.

しかし多分デカイ金を目指すものになりにくいだろうから(意思決定の段階で保守的な反発を受けそう),そこらへんの折り合わせは必要性が高そう.

いざとなった時に助けてくれる保障が核家族的概念に求められている限り変容は難しい,しかしその根底は「血縁」ではなく「(文脈としての)信頼関係」ではないかとのこと.

インターネットによる,前近代的な地縁共同体の再解釈・再定義の可能性.あー確かに,言葉も全くわかんないけど超ノリの合うインド人の兄ちゃんを家族だぜって言える状況とか,以前より簡単に起こり得るよなと思った.
そして近代的文脈である国家と家族間の保障についての対応関係,こいつと組み合わせて昇華していく回路の模索が重要だろうが,こちらは既得権的規模感が大きい印象があってどうすればいいのかよくわからない….


人間関係の形成のきっかけは目的でも,徐々に無目的になっていくことの家族化感….子どもに対して無目的に接する時間,というのは利他性が近いのか?

親密性が分散できると言うのは八百万的だと思った.キリスト教観あるとけしからんとなるのもわかる.

村から都市に移行というのは,まず単に都市が持つ交換・集積機能とそれの拡大,拡大に伴う依存度の上昇ではないだろうか.

https://slowinternet.jp/article/roundforming02/
↑こちらの構築3に関する文脈,とりあえず抜き出して引用しますが,対談1から読まないとわかりにくい気がする.

>都市や国家は構築2の段階で発生すると考えますが、たとえばジェームズ・C・スコットは『反穀物の人類史 ー国家誕生のディープヒストリー』(立木勝訳、みすず書房、2019)で、都市と初期の都市国家は穀物農業を統率することで成立したという論を強調していますね。さっき上妻さんが言われたように、カロリー効率の点からみても農耕の普及こそが人口集積を可能にしたわけですが、具体的にそれは、穀物生産地としての農業地域と、その生産物の消費・備蓄・交換の地としての都市という空間が対に拡張してきたという描像です。そのユニットの前線を拡大していくことこそが植民地化であり、一時的にせよそれを大規模に達成したのが帝国です。


夫婦別姓などに反対することが謎,という落合さんの疑問について.山田先生のアンサーは同調圧力だった.明治以前は苗字も変わりまくれば離婚もめちゃあるとのこと.これが明治以降で変わってきたと.なるほど確かに織田信長とかの同性愛ね.


僕としてはこの点は,近代国家がその成立を目論むにおいて求めてきた「核家族的」概念が影響を及ぼしているのではないかと思う.

地縁の薄まりと法的要請による核家族化の促進が産んだ現在の異形.謎の少数超反対派.

これは誰か.

現行法と関係しなければ誰からも助けを得られない人,あるいは助けを得られる主観的自信が"本当"はない人

ではないか.特におかしな理論武装で攻撃してくるのは後者な気がする.歪んだ認知を保ち続けるために攻撃性を手段として取る感じ.

地縁上であれば,個々の人間には何らかの機能的役割があったはずだ.村の狭さが,機能として存在する人間の交換・代替可能性の難易度上昇に寄与していた.

今はどうか.画一的な工業化の先端に位置する現在では,個々の人間は確立された機能的役割を要請されない.

つまり,いつでもクビになり得る.代わりがいる.代わりしかいない.
そしてこれは幻想上の主観的認識におけるもの(=保障感の無さ)なので,職業や立場は恐らく無関係

顔のわかる地縁における機能的役割としての「1」から,労働力という画一性の高い数字で計上されるだけな能面としての「1」になった.

前者のコミュニティでは機能的役割としての人間を内に保っておくためにしきたりがあり,それの拘束性とそこからの解放を求め,近代以降は後者(≒都市化)が進んできた.
というか,日本での高度経済成長期などは能面としての「1」に計上される事を条件に,終身雇用や年金といった当時における安定性(の幻想)が付与されていたはず.

これの加速が生み出したものは結局,現行法・制度にぶら下がる事でしかかつての地縁的フィードバック,つまり保障を得られない「1」の増産ではないか.

多様性のある社会というのは裏を返すと,「人によっては安定性を一切持てない」不安な社会なのではないか.

反対者は夫婦別姓だとかの,「そのこと自体」に反対しているのではなく――能面としての「1」が特異な機能的役割を有する個体としての「1」へ回帰していく事によって,担保されていたはずの「自身の存在意義」が失われていく――その端緒たり得る現象・状況に対してある種本能的に抵抗しているのではないだろうか.そりゃ声も大きくなる.そしてこの目的のためには理論なんて無茶苦茶でいい.


家族は自分らしさと結びついている・自分を自分(個人)として見てくれる人が家族である,と山田先生.
共同体というか,個体の文化的生存における保障体制を望んでいるというのはなるほど.

居場所という意味では根底の世界観共有みたいなものは必要そうな気もするし,この辺りを2.0化していくことだろうか.

「繋がりの分散化」が起きている現状,「保障」を応答させる事によって対応関係を塗り替える形で再構築していく段階なのかもしれない.


最後のまとめ,家族観念を溶かす事や近代からの卒業で何となく統一感がある.
「近代の起こり」を再咀嚼した上で止揚的に脱近代を模索すべきだろうが,近代的な画一化・統一化の先端にいる我々の中で,生きている間に近代の起こりを肌で体感した者はいない.もうみんな死んだ.
そうなると現状の構造に疑問を持ち得た上でなおかつ行動できる人間というのは恐らく,認知狭窄度が低く思考体力がそれなりにあって行動に繋げられる人,かなり雑に括ると「(認知的に)余裕のある人」になるのではないか.

画一化の洗礼を受けてなおクリティカルシンキング的な思考能力・社会実装能力を備えているインテリ的素養のある人たちと,そうではない人たち.

両者の間ではきっと見えている世界そのものが違っていて,世界観が違えば分節も変わる.結果として断絶が浮き彫りになる.

となるとこれもまた両者を接続する回路が必要になる.しかし多分今その回路は,インテリ側から包摂性を持って気長な対話を試みていく事くらいしかなさそうだし,しかしどの単位を相手に対話を試みるべきかがほぼ暗中模索である.

何の共通項もないまま人間同士が意思疎通を図るのは不可能に近い.
まずは地道に世界観共有と浸透が優先課題なってくると思う.「人間って酸素ないと死ぬんだぜ」くらいのレベルで世界観共有がてきればベストだが,セクシャルマイノリティとかになると肌感覚に訴えにくくなったりするし何とも言えない.

ここで鍵になりそうなのは最初の方に出た「ごっこ遊び」ではある気がする.そしてごっこ遊びへ接続するきっかけとしての物語.

物語を擬似体験ツールの回路として駆動させる事で世界観共有への地盤作りにアプローチしていけると思う.
ただそうなるとアニメとかドラマとか根本的に作り方を変えなきゃいけないし,こっちもこっちで多分金と利権の問題は普通にあるので難儀はしそう.
しかし政治側を変えたりだとか,世界観の異なる集団に体当たりで対話を試みていこうとしたりするよりは,よっぽど広範囲にアプローチできる気がする.そして後者はクローズドでありローカルであったりするが,前者はコンテンツとして多様にパッケージングできるので,インターネット(=対称性を問わない相互接続機能)と相性がいい.

こうなるとやはり回路の作り方・増やし方が問題になってくる….
資本主義に支配された価値観の上で数字を増やすゲームに成り下がり続けた結果,今の物語は回路としての意味を概ね失い,単にSNS上の享楽的瞬間消費物でしか無くなってきている.

利権的なものや,コンテンツと経済の対応関係,この辺りのドロドロしたところに踏み込むことになるが,この辺の意思決定的な流れはよく知らない.調べつつまた書きたい.どこで知れるかなぁ….
山田先生の本も読んで勉強しなきゃ.

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