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あえて、画一的な都市開発のポジティブな点を考える

戦後、地方都市の画一的な開発によってどこにもイオンができ、それによってその土地特有の文化が失われてきた、という文脈の話はよく目にする。

資本主義的な淘汰でもたらされる既存文化の破壊、つまりイオンができて商店街が寂れる、といった現象については、淘汰以外の解を模索すべき問題だと僕も思っている。

しかしまあこの系統の論調はよく見るし、ありふれている。

ありふれてしまうほどに問題意識的なものが表出してきたのかもしれない、ということ自体は悪いことでは無いと思う。

大体こう言った話の結びは「もっと地域の特色を生かせる開発をすべきだ」となるのだが、"あえて"、この画一的な都市開発が結果的にもたらした、個人的に「良いんじゃないか?」と思ったポジティブな点を書いていく。


それは、

「画一的な開発により、どの光景も地元とデジャヴする」

ということだ。
(東京の、特に港区周辺に生まれ、そこで育った人だとこの話は適用されにくいかもしれないということは前もって言っておく。)


道路の設計は日本全国で同じだし、建物に関しても古い日本家屋的な情緒あるものから現在の耐震設計に基づいた無機的なビルまで、根本的には同じものだ。

たとえば愛知県の地元で見てきた住宅街+イオンのある光景は、同じように千葉県でも見ることができるし、兵庫県でも、石川県でも見ることができる。イオンではなく、アピタだったりイトーヨーカドーだったりするかもしれないが、「大型ショッピングモール」の括りで考えればその骨組みは共通だ。

ドラマ、木更津キャッツアイは、この「木更津」が、候補の段階では「西船橋」や「春日部」と言った別の都市も上がっていた。

これは「どこでもいい」の象徴なわけだが、その見方を「どうせどこも同じだから変わりゃしない」ではなく、「どこでだって地元の親近感や郷愁を得ることができる」と言い換えられるのではないか?

完全に土地の文化が違うところで生活すると、そこへの適応にはある程度以上苦心を強いられる。
日本では一つ東京だけが、歪な独自文化を形成した。

だが他の都市では、「どこか(地元の周辺)で見たことのある風景」がまだたくさんある。
デジャヴによる親近感的なものは、その都市に住もうと思うための広い間口になり得るのではないだろうか?この視点は、なぜか見向きもされて来なかった。


画一的な都市開発がもたらした害は多くで語られている。コロナによって開疎化の方向性にベターが傾いたとはいえ、じゃあ実際どうなったのかと言えば、軽井沢のような別荘が売れている程度に留まっているような感じがある。

それはあくまで「非日常」の範囲なのだ。それでは多くの市井の民にまで波及しない、単なる金持ちの道楽の域を出ない。

本当にその土地と触れ合い、カントリー的な要素で住む場所を決められるような、正しく開疎を行うための広い間口として、画一的都市開発が産んだデジャヴ感を、親近感を発生させる口火として試してみるのは良いんじゃないかなと思う。

子どもの頃に過ごした地元と同じ人間が住んでいる、という親近感が産む効果は、変にマッチョに地域特性をドーンと書いてアピールするよりも深いところで作用してくれる気がする。

特有の地域性、みたいなものに目を向けてもらおうと思っても、まず「キッカケ」がなければ始まらないのだ。


追記
しかしこのデジャヴ感というのは、「誘致のための語り口」として文章にしてしまうと、全く同じ内容がただただ並ぶだけになる。
なので、あくまで「地域の特色」に根ざした上で、最初に興味を持ってもらうためのキッカケツールの域は出ない。

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