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エンターテイナーとしてのスタンスの話

「表に出るエンターテインメント従事者」と「インフルエンサー」の距離感を見つめながら,僕自身のスタンスを常に模索していきたい.という話.


配信装置の限界費用低下により,個人のメディア化が急加速して久しい昨今.

最近LINEのタイムライン機能が更新されて,小学生?中学生?くらいの子たちのアカウントが「インフルエンサー」なるタグがついて勝手に表示されるようになった.
もう僕なんかよりよほどインターネットネイティブである.すげえ.

さて,しかしてインフルエンサーという語はここ数年でとても小規模な単位にまで縮んだと思う.
明確なデータが無いので肌感覚でしかないが,十年前ではインフルエンサーとして見られる「個人」は有名歌手や有名俳優,有名お笑い芸人などいわゆる"テレビでよく見る人"だったと思う.
2014年くらいから徐々にYouTubeが日本でも膨らむ中で,それでもあの辺りの時期ではまだインフルエンサーたり得る個人はヒカキンさんだとか,アーリーアダプター的なごく一部の方に限定されていたように思える.

ところが,時が数年進むとYouTubeを含む,InstagramやTikTokといった視覚情報メインのSNSから「インフルエンサー的」な扱いの人が増えてきた印象がある.
まあ彼らがインフルエンサーを自称しているかは知らないのだが.


だが少なくとも,「インフルエンサー」という語の敷居が日々低くなっていることは恐らく事実ではないだろうか.

Google「インフルエンサー」という単語に年の期間指定を2014年以前(つまり「~2013」)にすると,引っかかるのはマーケティング記事ばかり.
企業主体・資本力主体のインフルエンスである.

これを2017年以前にすると,検索結果がガラリと変わる.
特定のSNS,当時ではは主にTwitterかInstagramで一定(基準はこの時点ではよくわからない)以上のバズを得ている個人,という認識が固まっていく.

2018年以前にまで上げるとまたマーケティング記事が引っかかり始めるのだが,内容が違う.
個人のインフルエンス能力を利用しよう!になるのだ.

2019年以前にすると,今度は「マイクロインフルエンサー」という語になる.頭になんか付いた.
こちらのサイトによると定義はこうらしい

"そして近年、特定分野に特化したSNSが登場する中、より細分化された領域で強みを発揮する「マイクロインフルエンサー」なる人々が登場しているのです。
いま、インフルエンサーマーケティングのトレンドは、「より多くのリーチ」を発生させると共に「より深いリーチ」の獲得を狙う方向へとシフトしています。"
https://www.marke-media.net/mp/sapuri/detail.php?bn=55

狭い規模でも確実に動員できる単位がそこそこ(~十万程度)大きい存在,ということっぽい.
なるほど,元々単語の意味が影響力を持つ者,であるから,むしろ原義に沿っているとも言える.

この状況の変化は,吉本隆明のいう共同幻想が,ミニマム化しているのだと僕は推測する.そして,ミニマム化すると同時に,一人が複数のミニマム共同幻想に属し得る.

サイバーカスケード的ミームを,その接続の容易さから,共同幻想であるとして個人が認識できる時代なのだ.チャットやコメントのような内部のやり取りが気軽なのがつよい.ミームは使い勝手がいい.

この現象そのものに良いも悪いもなく,なるほどそういう歴史なのね,という感じだが,我々を駆動させている社会に目を向けると,「ちょっと待てよ?」という話になる.

資本主義下において,"営利"企業が運営するSNSは当然,金を稼がなければならない.
じゃあどう設計するかと言えば,アルゴリズムの最適化によって可処分時間消費を最大化する方向に動くわけだ.


そして,ミニマム共同幻想を率いる者は,概ねその設計に対し無条件で乗っかっている.つまりSNSの思惑通りに,ユーザーの可処分時間をどれだけ奪えるかのゲームをしている.
これが先鋭化すると,カルト化したサイバーカスケードが生まれる.他者の排除がとても簡単なので,そこに陥った人間に対して何かアプローチをかけるのは難易度が高い.


さて,この群雄割拠もびっくりなインターネット時空で,僕自身はどういうスタンスを取っていくのか.

こうやって細かに思考のログをインターネット上に置いておくことも重要ではあると思うが,こちらに偏重しては人間に引っかかりを持ってもらいにくい.
人間はどうしたって好き・嫌いだとか感情を動力源にして動くものだから,そちら側の回路も必要なのだ.車は片輪ではまっすぐ進めない,両輪が必要.

人間に対してオープンに,主に表に出るエンターテインメント従事者として「エモい」側面にアプローチしながら間口を広くする.
これがまず先立って重要なことだ.人が来なければうまいまずいに問わずラーメン屋は潰れる.

しかし,ラーメンだけ出しているかと思いきや,奥の部屋ではジビエだか何かの匂いがする.
つまり通常のエンターテイナーとして動きつつ,このnoteであれこれ書いているような社会だとか人間だとかについての試行錯誤をやめない.

最初っからどっちもやっていく,ということだ.奥の部屋はいつでもオープンなので物珍しさに入ってきてOKである.

正直,僕は感情に訴えかけてアドレナリンドバー!みたいな資本主義システム的インフルエンサーの回路を多分ほとんど持っていない.そしてそういう訴求がそもそもあまり好きではない.(ある程度までは,語り口の練習も重要だと思っている.)


その代わり,エンターテイナーと社会の思索を両軸で続けていくことで,ひとつひとつ何か変わったものをインターネットに置いていけたらと思う.


社会の思索については今,「欲望の設計」の問題だと思っている.この辺りも掘り下げて今後書いていきたい.

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