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"静的"な拡充は今後あり得るのか?

Twitter・Instagram・Facebook、そしてTik TokやYouTuberなどの台頭から、近年ではVtuberも一種のコミュニティと化しつつある。

日本において2011の震災以降、コンテンツや言論人の認知拡充は基本的に"動的"であった。
もっと言えば、「炎上」マーケティングである。

グーグルで「before:」をつけ「インフルエンサー」で調べると顕著なのだが、インフルエンサーが持つものとされるフォロワーの数字は年々下落しているのだ。

2015年あたりでは、数万~数十万のフォロワーを持つ芸能人がメインで、彼らがInstagramなどでPRすることを指していた。

しかしこれが一年、二年の単位で規模感が縮小していく。
2019年くらいになってくると、「数千のフォロワーでも動員能力が高い」個体のこともインフルエンサーと定義されるようになる。

「マスメディア的インフルエンス」が縮小し、「サイバーカスケード内の同調」になったのである。

日本において震災以降のインターネットは、大きな物語の崩壊によるサイバーカスケードの加速が主流だ。
大きな物語の崩壊とは、
震災→反原発デモ→各種デマの流布→ISISによる邦人殺害事件→トランプ大統領就任に付随するナショナリズムの再台頭、及びそれに共依存する形での敗北主義的リベラリズム→コロナショック
に代表される一連の流れの中で発生した共同幻想の瓦解を示す。


サイバーカスケード外の個体にアプローチするための手法はSNSにおいてほぼ一つしか無い。
キャッチコピーである。

これが結果として炎上を生み、感情だけが動員されて現実は何も動かない。ただただ欲望で駆動する動物的消費だけがそこにある。
この流れに抵抗すべく、以前香港活動家の方が逮捕された際に僕も抗議活動を行った。

12/12に行った中国大使館前抗議活動の考察
https://note.com/_ttttt/n/nf667ac9b8963

しかし参加者は0人。猪瀬直樹さんにメールして、Twitterのフォローを頂き、拡散もしてもらったのだが、僕自身のエトス不足・キャッチコピー不足により虚しい結果となった。


さて、肩書(エトス)のない者は特に参加しなければならない、キャッチコピー合戦。
そもそも大手メディアだの数万以上のフォロワーを持つアカウントだので、既にキャッチコピー合戦になっている。

むしろキャッチコピー合戦に参加することが、インターネット言論参加の前提条件のようにすらなっている。
(そんなものは言論でもなんでもない、という話はひとまず置いておく)

しかしキャッチコピー合戦である程度勝ち抜くには、(比較的低俗な)欲望に訴えかける単語をピックアップできる、ある種の商人的才能が必要である。
最近は特にそう感じている。この商人的才能が欠けている人間がどうにかしてキャッチコピー合戦に参加しようと思っても、猿真似以下で終わってしまうのだ。

根本的に静的な性質を持つ者が、キャッチコピー合戦のような動的な性質で戦おうとするのは場違いである。

そもそも勝てるわけのない戦いだが、だからといってサロン的なコミュニティに引きこもることが良いとは断じて言えない。(閉じたコミュニティはスケールしないし、単にカルト化の懸念だけがある。かつては意味不明なクレーマーを排除するために財布を開かせていたが、その思想は果たして今も有効か?)

撤退戦として、キャッチコピー合戦の中で試行錯誤を繰り返すことが必要だ。

見直したら、僕自身のスタンスについては以前に書いていた。

エンターテイナーとしてのスタンスの話
https://note.com/_ttttt/n/nd297ce5972bc

"人間に対してオープンに,主に表に出るエンターテインメント従事者として「エモい」側面にアプローチしながら間口を広くする.これがまず先立って重要なことだ.人が来なければうまいまずいに問わずラーメン屋は潰れる.
しかし,ラーメンだけ出しているかと思いきや,奥の部屋ではジビエだか何かの匂いがする.つまり通常のエンターテイナーとして動きつつ,このnoteであれこれ書いているような社会だとか人間だとかについての試行錯誤をやめない."

最も、エンターテイナー(主に声優)としてはどこにも所属できていないのが現状だが・・・。
僕のことはさておき、思索を経たコンテンツや言論、つまり"静的"なものを今後拡充していくにはどうすればいいか。

上の引用部分は、それについての僕なりの今の答えである。

間口としてのエンターテイメントは、単なるキャッチコピーでもいいのか、他の切り口があるのか、については試行錯誤を経なければわからないと思うし、多分何かに固執することなく試していくべきなのだろう。

エンターテイメントというのは、「触れやすいコンテンツ」である。
800円のラーメンを食う手軽さだ。

現状、どこまで行ってもどこかでキャッチコピーを作らなければいけない壁には引っかかる。
しかし、ムズカシイ言論を噛み砕いたような、手軽なコンテンツ≒エンターテイメント化はまだ模索の余地があると思う。
エンターテイメントを単なる消費物として、それそのものがゴール化している昨今だが、まだ、この回路は使えるはずである。


咲をきっかけに麻雀を知った人はいるだろうし、ウマ娘をきっかけに競馬を知った人はいるだろうから。

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