芋出し画像

燊然

䞖の䞭、䜕でも名前を付けおカテゎラむズをしたがる。こんな「私」に察しおも様々な角床から名前ず条件を抌し付けおくる生掻に疲れおいる。
「もう倧人なんだから〜」「女性なんだから〜」「瀟䌚人なんだから〜」だから䜕だずいうのか。

最近、寝れない倜が増えた。虚しい、寂しい。心现い。濁流のような䞍安が溢れおくる。

ぜっかりず胞の真ん䞭に空いた穎。寂しさを玛らわせたい、氞遠のような䞀瞬に甘えたい。倧䞈倫だず宥めお欲しい、なでなでしおほしい。よしよしされたい。もう倧人なのに、恥ずかしいかな。
もう倧人だから簡単には満たされない。

深倜に寂しすぎお、甘えたすぎおどうにもならず眠れずに、隙し隙し飲み蟌む睡眠薬には䜕の効果もない。
積み重なった睡眠䞍足が着実に身䜓を蝕んでいるのを実感しながら怠い身䜓で生掻を営む。


この数幎間であっずいう間に身䜓がボロボロになった。幌い頃、䞡芪は「健康なこず以倖、お前は䜕の取り柄もない人間ね」ず蚀っおいたけれど、健康ですらなくなっおしたった私はどうしたらいいのだろう。

そう蚀えば私は新生児の頃、圓時ではかなり高䟡な粉ミルクを飲たせお貰っおいたず聞いた。
その時も䞡芪は「あれだけ高いミルクを飲たせおその皋床にしか育たなかったんだから、安物のミルクをお前に飲たせおたら䜕かしらの障害が出おいたかもしれないから感謝しろ」ず蚀っおいたっけ。

そういう粟神的虐埅の蓄積で埌に私は粟神がおかしくなっおしたうのだけど。

ここたで曞いお、話が脱線しおいる自芚はあるが、折角なので思い出せる範囲で曞いおいこうず思う。
少々過激なこずを曞く可胜性は吊めない。曞かない可胜性もあるが、苊手な人はブラりザバックするこずを、ここで匷く勧めおおこう。












明確なきっかけは思い出せないけど、䞭孊生3幎生頃に初めお手銖を切った。
高校受隓のプレッシャヌや成瞟䞍振もあったず思う。志望校ず蚀うのは私ではなく、あくたで芪の志望校だった。その高校に入孊しお、高校圚孊䞭に海倖留孊に行っお英語を孊んで、将来は英語を䜿った仕事 䟋えば通蚳ずか 
そんな将来ぞの擊り蟌みは小孊生からあったず思う。
そしお無事に志望校は䞍合栌ずなる。
私は特に萜ち蟌みはしなかったが、芪は酷く萜ち蟌んでいた。私を(芪の)志望校に合栌させるために費やした孊習塟の費甚を蚈算し泣きながら「お前にこんなに倧金を投資したのに倧損した。育お方を間違えた 」ず、私に向けお母が蚀い攟った。
それから暫くは肩身の狭い思いをしながら生掻を送った。

転機が蚪れたのは、それから数週間が経過した頃だったず思う。
滑り止めで受隓した私立の高校からの䞀本の電話だった。
話を聞くず〈入詊の英語の成瞟が突出しおいいから普通科ではなく、英語科に線入しないか〉ずいう提案だった。迷わずに線入を決めお芪に䌝えた。
昚日たでずは打っお倉わっお、䞊機嫌になる母芪。それで私に察する母の溜飲が䞋がるなら、正盎高校も孊科もどうでも良かった。

入孊しおからの英語科での生掻は地獄みたいだった。

入孊日目に担任に呌び出され「あなた孊校嫌いでしょ英語も奜きじゃないでしょ」ず早速芋抜かれ、正盎に「めっちゃ嫌いです、孊校も英語も。英語科に線入したのは芪の意向なんで、卒業できる皋床には頑匵りたす」ず啖呵を切った割に英語の成瞟は赀点で远詊が続いたのは蚀うたでもない。

あたりに远詊が続き、そろそろ危ういず察しお授業を聞いお勉匷を始めおからは孊幎3䜍に䞊り詰めるくらいに成瞟が急䞊昇したこずで、再び担任に呌び出され「カンニングしおないよね」などず確認される始末。
英語科のカリキュラム的に日時間は英語の授業があっお、writingの女性教垫には凄く嫌われおいた。授業の内容は党く思い出せないが、その女性教垫はX JAPANの熱狂的ファンで自分の子䟛にペシキず呜名するほどの信者だったこずだけは今も芚えおいる。

そんな感じで興味のない英語を勉匷し続け、孊校ず自宅ぞの埀埩をしおいた、ある雚の日だった。

その日は孊校が半日で終わり昌頃に自宅に着いお郚屋で携垯を芋おいた。
䞀階で過ごしおいた祖母が珍しく郚屋にきお「たたにはお昌に出前でも頌もうか」ず。
面倒に思った私は祖母の提案を断った。その数時間埌に私は䞀階で銖を吊った祖母を目撃する。

祖母が自殺をした盎接的な原因は、私が出前を断ったこずではない。
ただ、今日死ぬかどうするかずいう遞択肢は、私の出前に察する返答に委ねられおいたのかもしれない。ずいう私の勝手な劄想は頭から離れるこずなく付き纏い、気付いたら粟神ががろがろになり保健宀登校になっおいた。

芋るに芋かねた担任ず保健宀の先生に勧められお
人生初の心療内科を受蚺するこずずなる。
そこでの蚺断は《鬱病》《境界性パヌ゜ナリティ障害》だった。
私はずっず苊しかったから、この苊しい気持ちが気のせいや甘えや怠けではなくお、ちゃんず病気だったんだず思うず救われた気持ちになった。
そしお、ここでも母は酷く萜ち蟌んでいた。

心療内科の垰りに調剀薬局で薬を貰った。
向粟神薬は薬䟡が高かったのだず思う、「こんなに高い薬なんだからちゃんず飲んで早く普通になっおちゃんずしおお願いだからママをこれ以䞊苊しめないで」ず母は私ぞ蚀った。

「私が生きおるだけで苊しむ人がいるなら、私も生きおお苊しいし死んじゃいたい」ず、垌死念慮ぞ倉化した。
それからの私の病気の悪化は凄たじいスピヌドだったず思う。

孊校垰りに叀本屋を䜕軒も回り、圓時は販売䞭止されおいた【完党自殺マニュアル】を手に入れお熟読した。
手始めに薬局で咳止め薬(敢えお商品名は䌏せる)や鎮痛薬(敢えお商品名は䌏せる)を賌入し床に倧量に服甚する、所謂OD(オヌバヌドヌズ)をした。
日以䞊目が芚めないこずもあっお孊校を欠垭する頻床も増えた。
孊校に通うこずも蟛くお駅構内のドラッグストアで鎮痛薬(敢えお商品名は䌏せる)を賌入し、孊校のトむレで倧量に服甚し意識朊朧で授業を受けるこずも増えおいった。

心療内科ぞの通院に぀いおは、未成幎のため
保護者付き添いが条件だった。
カりンセリングを受けるこずもあったが、基本的に自費になるため支払いは高額だった。
病院の垰りに寄ったご飯屋さんでメニュヌよりも先に母がテヌブルに広げたのは、カりンセリングの領収曞だった。
「こんなに高いんだから早く元気になりなさい。お前よりママのが苊しい」
そのあずに食べたラヌメンは啜っお噛んで飲み蟌む䜜業だったこずも芚えおる。

その頃から手銖を切る頻床も増えお、傷は深くなり傷痕が目立぀ようになっお半袖を着られなくなった。
血を芋お安心するずか、痛みで生きおる感じを味わうずかそういう幻想的なものではなくお、本圓に死にたかっただけだった。

手銖をひたすら切りながら、倧孊受隓を考える時期に差し掛かった。
倧孊も志望校は私ではなく、母の志望校を遞んだ。勿論、英文孊科。さっさず受隓を終わらせたい䞀心で自己掚薊(A.O入詊)に挑戊し、合栌した。

高校の比范にならないほど蟛く過酷なキャンパスラむフは私の心をどんどん蝕み、入孊ヶ月目にしお䞍登校になった。
この頃から垌死念慮が匷たり、自殺未遂を繰り返し人生初の救急搬送からの手銖瞫合(11針)をする。

この頃から私に察しお母は䜕も蚀わなくなった。
効には「お姉ちゃん(私の事)みたいな人間にはならないで」ず話をしおいたらしい。