信仰ってなんだ

先日こんな映画を見ました。ネタバレがあるかもしれないので注意してください。

以下あらすじ(公式サイトから)

少年院で出会った神父の影響で熱心なキリスト教徒となった20歳の青年ダニエルは、前科者は聖職者になれないと知りながらも、神父になることを夢見ている。仮釈放が決まり、ダニエルは少年院から遠く離れた田舎の製材所に就職することになった。製材所への道中、偶然立ち寄った教会で出会った少女マルタに「司祭だ」と冗談を言うが、新任の司祭と勘違いされそのまま司祭の代わりを任された。司祭らしからぬ言動や行動をするダニエルに村人たちは戸惑うが、若者たちとも交流し親しみやすい司祭として人々の信頼を得ていく。一年前、この村で7人もの命を奪った凄惨な事故があったことを知ったダニエルは、この事故が村人たちに与えた深い傷を知る。残された家族を癒してあげたいと模索するダニエルの元に、同じ少年院にいた男が現れ事態は思わぬ方向へと転がりだす…。

簡単に言うと少年院から出た前科のある少年、信仰心に目覚めるも聖職者にはなれず、ひょんなことから司祭に勘違いされてやってみたところ意外といけたので自分なりにがんばる、って話ですね。

私はキリスト教徒ではありません。実家の宗教にもそんなに熱心には触れてきていないです。小学生のころ手塚治虫のブッタを読んで、高校はミッション系に通っていて、聖☆お兄さんの宗教ギャグがちょっとわかるくらい。最悪なガキだったので「なんで神様ってあんなに偉そうなんですか?」って宗教の先生に質問したこともあります。(先生は苦笑いして「偉いからな~」と言っていました。あの時は困らせる質問をしてごめんなさい。)

でも信仰ってすごく面白い。人がなにかを熱烈に信じて行動するという行為にはものすごく興味があります。

「聖なる犯罪者」は宗教的な教えを広めるための映画というわけではない気がします。何かを信じようとするときの人間の心の形について考えさせられる映画でした。

信仰ってどうやって生まれるんだろう

この映画を見て改めて考えました。信仰心ってどこから来るんだろう。

神様とか仏様とかそのほか色々を祀っているようなところだと、家がその宗教を信仰していて、ものごごろがついたころにはお祈りをしたりその宗教の教えにしたがうことが当たり前だったとか、映画のダニエルのように知らなかった教えを説かれたことがきっかけで何かを信じることにめざめるとか、そういった形が一般的なのでしょうか。

そうなると信じる対象ってなんでもいいのかな。今はもう姿かたちがない存在から、今姿かたちをもって世の中にある存在、そうじゃないものもたくさん。これはこういうものだよと幼いことから教えられたら、それを疑うことって実はけっこう難しいし、結局信仰心って人が何かを信じたいと思えば生まれるのかもしれません。その心を抱いた人が同じ存在を信じている多くの人々とまったく同じ気持ちでその存在を信仰していなくても。

信仰される存在、信仰する人

ダニエルの場合はキリスト教を信仰していました。初めて行った村でまず彼が向かったのは教会。神がいる場所だと何度も言われていたところです。聖職者にはなれないと言われても、腐ることなく信仰の心を止めない彼ですが、教会に行く直前にはおよそ聖職者は行わないであろう行為を色々と行っていました。(バスの中でタバコは画になるけどマジでされたら超嫌)

ダニエルは神学校に行きたいと思うくらいには信仰心の強いひとでした。だけど、タバコも吸います、悪だくみにも加担します、薬酒女、全部楽しみます。戒律を守って完璧に清らかな人間になりたいタイプではないみたい。ただ、作中では「私達は罪人」「お赦しください」そう言った言葉を何度も使う。自分は傲慢で、罪人で、赦しを乞うべき存在なのだと。村の人々はそんな彼を司祭として受け入れ、自分の弱いところも打ち明け始める。冷静に考えればちょこちょことおかしなところがある司祭様、ただし彼の説教は村人の心を打ちました。何か心を貫かれることがあったとき人は信仰をはじめるのだという分かりやすい流れ。「信仰心」の誕生です。村人たちにとってそれは神の言葉を、教会という祈りの場をかりたダニエルの説教だった。

ここまで書いていてものすごく自分にも当てはまるものが思いつきました。

私はアイドルが好きです。彼ら彼女らのことを思うと力がわいて、救われて、アイドルが音楽のみならぬたくさんの色々なステージに立つ姿をみて胸を打たれる。

ここまでの話を踏まえると、自分が行っている「半端ではない異常なレベルの好意と執着」これは信仰と変わらないものなのかもしれません。

信じる対象と信じようとする気持ち これがそろった時信仰心は生まれるのだろうかと思いました。

アイドル(偶像)を信じるって?

オタクはよく宗教の言葉に絡めて自分の行動を話します。「布教」とか「お布施」とか。

ただ、アイドルは存在を持った人間です。ダニエルが信仰している神という存在とは少々違う。むしろダニエルのように完璧に清らかな存在ではないというのが一般的でしょう。

ただし我々オタクは人間であるアイドルを好きになる。信仰心を、信仰心に近いけれど恋とめちゃくちゃになったごちゃまぜの感情を抱くこともある。自分の名前も顔も普段の姿も知られていない相手に対して、同じく何も知らない相手を、勝手に。

生きている人間って難しいです。身近な人のこと、感情の動きすべて把握できますか?なにか犯罪が起こった時「まさかあの人(子)が」なんて言葉はよく聞きます。人は色々な顔を持っている。学校、職場、家族、恋人、現場、もしかしたら誰にも見せていない顔も。大好きなあの子も同じかもしれない、オタクはそれを知る権利も持ち合わせていない。

そんな人間に分かりやすいラベルを貼り、清らかなところを決められた場所で見せようとする存在、人々が胸を撃たれ、心を動かされ、そして信仰にいたりやすい偶像、それがアイドルでしょう。

ここ最近はそういった定型を打ち破ろうとせんエンターテイメントの提供の仕方も流行っていますよね。清らかでないところも見せる、そんなことしちゃうの!?アイドルだよね!?その言葉が面白さを助長させます。

ただし、その「清らかでない」も一部の人たちが考えつくしたプロモーションである時もあり、およそ「清らかでない」とされるような本物の生々しい情報が出てきたとき、嫌悪感を示す人もたくさんいるのでしょう。私が暮らしている国は特に。

信仰とアイドルを好きでいることはとても似ていると感じましたが、オタクが信仰の対象に赦しを乞うことはあまりないのかもしれませんね。信じるという気持ちは生まれているのに、ここに違いが出てくるのはなぜだろう?

光に照らされて人の思いを背負う姿の存在を確かめて場合によっては依存する。やっぱりこの姿はかなり通じるものがあります。「正しい」とされる信仰でなくても、神の存在を信じていたダニエル。それは形式化された信仰の方法と少しズレていたから正しい形に見えなかったのかもしれませんが、「正しい」なんて決まりはない中では信仰の気持ちに正解がないのも当然なのかもしれませんね。

オタクが祈るための場所

キリスト教であれば礼拝堂、仏教であればお寺、神道であれば神社。宗教には祈りの場所はつきものです。祈りも様々ですよね。世界の安泰を望むこともあれば大切な人の幸せを祈ったり、懺悔することもある。また、祈りは信仰している存在と繋がる瞬間だと考えたりすることもある。

じゃあ、アイドルを信じる人の祈りの場所は?

私はステージかなと思います。

何かの作品を表現する場所。アイドルの説教はそこが基礎で、聖典や聖書やお経みたいに雑誌やSNSがあって。オタクは自分の目で見て自分なりに解釈をしたアイドルの姿に自分の祈りを乗せる。この人たちが売れてたくさんの人にこの存在が知られますように、この曲を聴いてまた頑張れますように、推しと繋がれますように!こう書くとやっぱり信仰とオタクの感情は似ているように感じます。信仰している存在と繋がりたいと思う信者もいるし、推しと繋がりたいと思うオタクもいるしなあ。(意味がちょっと違うのでは?)

では、アイドルがステージを降りたら?(この場合はステージはお仕事の場という意味なので、SNSを更新していない瞬間やテレビのカメラに写っていない瞬間を指します)

それでも人々は信仰をやめません。自分の心のなかで、時には言葉にして信仰を続ける。アイドルがステージに立っていない瞬間も。

アイドルはどこまで信仰されなければならないのでしょうか。偶像として生み出された自分のようで自分でない何かを信仰されて、その信仰心を守るためにアイドルはどこまで自らの身を削らなければならないんでしょう。隣人愛を説くイエスキリストは人々の罪を彼の父への信仰を背負って十字架に架けられました。アイドルが、オタクの罪のような傲慢なめちゃくちゃな信仰を背負って生きなければいけない理由はどこに?彼らもまた愛を以てして我々の信仰を背負ってくれるのでしょうか?

宗教と呼ばれる存在は、祈りの手順が決められています。ずっとずっと昔から決まっている形で、多くの人が知恵を絞って形式化した祈りの方法。そこが整備されていない生まれたばかりの信仰は、どうも脆くてあやふやで危なっかしいです。人が人を信じるとは、多くの場合とても危険なのかもしれません。

つまり何

村人はタバコも吸う、酒も飲む、少々型破りなダニエルを受け入れそして信じる。あの姿は私には信仰に見えました。

やっぱり、結局人が何かを信じたいと思った瞬間、信仰の心は生まれるのではないでしょうか。信じたいと思った自分の気持ちが揺らぐ出来事が起こったとき、その心は強い不快感を示し、場合によっては破壊行動だったり争いだったり、暴力的な形で姿を現します。

形式化されていない信仰はその揺らぎが多いのでしょう。ぐらぐらと揺れる自分の気持ちと信じる対象。その揺らぎの狭間でボロボロになってそれでも信じたいと打ちのめされることがオタクの罪を償う方法なのでしょうか。

「信じる者は救われる」

どうせ信じるなら救われたいし幸せになりたい。傲慢にもそう思う私は赦しを乞いながら今日も好きなアイドルの音楽を聴き、踊る姿を見て、投げかけてくれる言葉をありがたく受け入れるのです。この「半端ではない異常なレベルの好意と執着」がいつか自分の心を穏やかにしてくれるだけのやさしい信仰に変わればいいのにと思いながら。


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