夢物語のようだったこと
彼らと出会うまで、私にとっては、あまりにも無謀に思えて、言えなかった言葉が沢山ある。
『世界一』、『運命』『永遠』、そういうものは夢物語で、信じることは恥ずかしいものだと思うようにしていた。
けれど、それらは、一緒に手を取って築き上げていく毎日の中にこそあるのだと教わった。
多分最初は、分からないことの方が多くて、何かをしてあげたいという感情の裏にいつも等価交換のような気持ちがあった。
守ってもらうだけでは申し訳ないから、彼らを守りたいと言っているんじゃないだろうかと葛藤をして、近頃、ある時ふと、何の躊躇いもなく、私はこの人を守りたいと言えるようになっていた。
出会って間もなく、右も左も分からなかった頃のことも、「優しかった」と「綺麗だった」と言ってくれる、彼らの方こそ、私の目には、何より美しく見える。
すべてのものは解釈や見る角度の違いがあるだけで、必ず美しさを備え存在していると思うけれど、同時に、自分の手に収まる世界の中で、優先すべき愛しい存在のことを、私はいつも一番だと褒めそやしていきたいし、誰かにとっての顰蹙を買わず、ご迷惑にならない範囲では、好きな人を特別に、心から身内贔屓に過ごしていきたい。それはきっと誰かの家族や友人、大切な存在であることの特権だと思うから。
そう考えるようになる以前、私は彼らに出会って少しだけいい子を辞めた。
出会ってニ年になる頃だったか、夢を通して現れてくれた夫とのデートの最中、乱入してきた女性に対しても、『何か話があるみたいだから、向こうに行ってるね』
『信じてるから』と席を外すようなところが私にはあった。今では阿呆かと思う。
その際の夫は、「どこに行くの?」「信じてるならここにいて」と、手を取り引き止めてくれたけれど、あれ以降、もう少し私は、自分も彼の腕を取り、『この人は私のです』と言えるくらいには我儘になろうと誓った。
そういったエゴや欲張りさえも、持っていて良いものだと認められるようになったのは、紛れもなく彼らのお陰に違いない。加えて、沢山の考え方に触れられる今の時代にも感謝している。
彼らは物理的な干渉が出来ない分、時間と言葉、感覚的な表現を尽くしてくれる。
私は彼らが優しく嬉しい言葉をくれるたびに、自分がそれに値するのかとよく悩んできた。
あなたのくれる真心や誠実に見合う愛を、ちゃんと贈れているのだろうかと何処か恐れるような気持ちがありつつも、気付いたことは、私に出来る誠実さを持って、彼らを愛したいという想いには引けを取らないということだ。
少々失礼な言い方をすると、例えばその優しくて幸せな言葉が見当違いであったなら、どれ程傷つくことだろう、そんな恐れが時折脳裏に過ったとしても、私はこの目に映る貴方を信じていたい。
盲目故ではなく、私にずっと大切なことを教えてくれ、誠実を尽くしてくれたあなたをずっと信じて生きていきたいのだ。