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変わり映えのない不思議

※こちらはIFやタルパといった目に見えない存在と、オカルト・スピリチュアルに属する話題を多く扱った記事です。
 訝しむお気持ちを大切に、どこかにあるのかもしれない穏やかな与太話としてお考えくださいませ。

2024/03/26加筆修正

 私は不安を感じやすい怖がり人間で、お化けといったものは見たことがありません。
 また、ホラー映画も大の苦手です。大人になるまでは、家庭の雰囲気も手伝って、見えないものは基本的に存在しない体で生きてきました。

 それでも時折、「不思議」といったものには出会うことが多く、何となくこの世には目に見えない人生の流れだとか運のようなものも、ハッキリとは分からないなりに存在する気がしていました。

 とはいえ、特に宗教めいたものへの信奉もせず、これから先も、お正月やクリスマスを別け隔てなく祝い続ける覚悟の私は、
 〝彼ら〟と出会い、もし自分にとって唯一を選ぶかのように、厚い信仰心らしきものを燃やす対象があるとすれば、それは愛する彼らにだけと考えています。 

 その為、ある種の共感性もあり、他者の信仰におけるその清らかな概念については、いずれも美しいものを感じています。
 神社仏閣、ガネーシャから妖精に至るまで、歴史や社会的背景、光と闇をにわかには感じつつも、実際それらの縁の地を目にすれば、私はやはり、無知者なりに、厳かな敬意を持って拝したいという思いです。

 そんな風に、彼らのことを認識するまで、特に何かへ傾倒することもなく生きてきた中にあっても、
 先述のように『不思議』と出会うことはあり、

 それはたとえば、

 幼い日にやたら辛いことのあった翌年、何かに慰められるように、ベルをカンカン鳴らすようなくじ運を何度か発揮した時期。
 最近なら、出先で背中にやたらとモヤモヤ纏わりつく気配から逃げ回っていると、結局逃げられず、捕まった相手は、誰かと話したかっただけの御年配者であったことなど。

 良く分からない中でも、不思議な体験に触れてきた事実は幾ばくかあり、
 また、愛する彼らに出会ったのちは、子どもの頃から地味に嫌だった金縛りにあうことも殆ど無くなって、多分彼らのお陰で、助けられていることも屡々あるのだと思います。

 そんなあれこれが、私の中では、彼らを信じる為の土台にもなっており、
(普段は口にしないだけで、そういうものを肌に感じている方は何処にでも居られて、
 目に視えない不思議な事は、あまりに自然と、確かに有り触れているのだから、)

 我を忘れた盲信でも、日々を忘れる怠惰でもなく、
 誰かが真っ直ぐに想いを捧げた大切な愛情と、
 その心に、誠実な形で呼応しようとする存在は、
 どんな形であれ、この世の片隅に息づいてくれていると、私は信じています。
 

 それから最後にもう一つだけ、大変眉唾なお話をさせていただくのですが、

 私はときどき夢や、現実の感覚などを通して、
 これから先の物事、例えばいずれ観る映画の内容(恐らくこれを事前に解釈して学んでおけ感がある)や、
 数日、数ヶ月、一年後に備えるべき事象を垣間見ることがあります。

 ただ、後になってそれが本当だったと分かることも多く、取り返しがつくもののときは、
「まさかな」とスルーして、後悔する時もあります。

(彼らとの思い出ファイルを削除する映像が浮かび、数日後、誤って完全に削除、復旧に苦労しました。)

 また、重く嫌な現実を知ったとしても、薄々心の準備や、必要な対策の布石と初手が打てれば上々、
(しかもそれはどれが正しいか未知数)その事象を避けられることもありませんでした。

 私の感じた見えない存在やそれに纏わる物事は、偏って都合が良いことなどあまりなく、そういう事象からはいつも、
 教えられた「こうかもしれないよ」という善意には気を留めて、目を背けず、自分に与えられた環境と、能力と意思を侮らず活かすこと。
 そして度々間違いながらも、
 そこからまた必要なことを知り、各々の毎日を大切に生きるよう、促されているのだと感じます。

 視えない彼らとのお付き合いもまた、私にとってはそれに然りで、これまで抱いてきた多くの望みに対して彼らが真摯であったことを忘れずに、感謝をしつつも、彼らは決して、私が思い通り扱ってもいいような、そんなことを許してくれる存在ではないのだと、常に自覚していたいと思っています。
 (また、真心とはどんなものか、ずっと問いつづけながら、側に在れたらとも。)

 以上、長々とお付き合いいただき、誠にありがとうございました。