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憂さを見つめる

今期の渓流はタイミングを図ったので比較的良い釣果。
そんな夏が終わり、僕はまたSRに跨って「始まりの場所」へ向かう。
道中、親しみがある神社を参拝して皆の息災を願った。

最近のわだかまりの理由を自身の胸に問いながら、山中の木漏れ日を旋回すると、この数か月間アルコールを断っていることを思い出した。
もとよりアルコールが好きなわけでもなく、得意なわけでもない。
ウィスキーの香りとソーダののど越しで憂さを晴らしていただけだ。

憂いの対象は明らかで、不健全なヒエラルキーのてっぺんからすそ野まで気の毒に思うくらいに、感じることも考えることも止めた人々。
最近の例で言えば、結局、未だ認可もされていない薬を消費しようとする人たちと、それが普通だと思い込んでいる消費させられる人たち。
どっちも日本人あるあるだ。
疑うことをせず、おカミの言うことを盲目的に信じる性向は毒にも薬にもなると、常々そのように思っていた。

始まりの場所で見上げた雲が速い。台風の影響だな。
胸の内側から漏れ出す不快感も低気圧のためだろうか?
いや、アルコールで誤魔化していた憂さが溢れている。
自分自身を見つめることから逃げ続けてきたそのツケだ。

飲酒が常態化したのは遼の死後。
悲しみ故とか、そうではなく。
疲れ果ていて眠りたかった。
あれからずっと、この15年間は惰性の極み。
それ以前はそうしていたように、沸き起こる不快感や衝動、その感情の理由を掘り下げる必要があるのだ。
自分自身から逃げてもロクなことにはならない。
今更の話(笑)

この場所に来ると昔を思い出す。

※写真は始まりの場所北の空


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