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写実的であるがゆえに
もともとの自分はとても感覚的な人間であるということは自覚があって、いちいち言葉にするよりも、結論だけを提示する方が素性に近いのだと思う。
noteという場で、実は特に表現したいこともなく、でも何かしら書いていたいという欲求を消すこともできず、なんだか亡霊のようにノートパソコンを開いては閉じるだけの夜も多い。
そんなフラストレーションを消化するために、スマホの電波が届かないような県境の山奥でイワナたちと戯れてみたり、特にあてもなく単車に跨り景色を流しながら感じる匂いだとか。そんな非日常の瞬間が、時空を超えて魂とつなげてくれる。
かと言って、日常のフレームレートですら確実につながる瞬間があることも知っていて、それを思い出すだけで、脊髄から発生する電気信号は心臓付近から遠心性に拡がり、表皮と毛穴を震わせて周囲の空間へ還っていく。
こんな風に書いていると、私の書く文章はある意味写実的であり、他の人生でもそうであったように、今生でもそのようにしか書けないのだと思い知る。
特にこの数か月間は文章といえば仕事に関することばかり。
私の場合、それは文字通り写実的であると思う。
しかし、多くの人たちは写実的ではない。
現実を誰かの都合のいい角度からしか見ていない。
そこに錆びついた鎖のような業が生まれるのであればよした方が良いのにと思う。
こんな野暮なことをわざわざ書く必要はないだろうと、だからプライベートな時間まで文字に支配されたくないのかもしれない。
仕事に関する文章といえば、ようやく形にできたと思った瞬間からコロナ禍が始まり、今に至る。
それも必然とするならば、少なくとも既存のスポットライトなど私には無縁でしかなかったのであろうと思いたいし、死ぬ瞬間にすべてが報われればそれで満足するような徳など今のところ持ち合わせてはいない。
時代は変わったと言うが、その内面での感触と、外の世界から肌に伝わるタイムラグがフラストレーションの正体であると思いたい。
※写真はいつかの入江にて妻と。
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