フェロモン/日本語圏/中絶ピル

周辺にあまり人の出入りがない場所に突然ある、インスタのフォロワーがすごく多いカフェとかに何の前情報も無しで入ると、不思議な気持ちになる。人は吸い込まれるようにそこに向かって、滞在して、去っていく。そこだけが別の世界にパイプで繋がっているような、見えない信号で人を呼び寄せて場所を作っているような、そんな感じが。実際、そうなんだけど。

虫の、フェロモンのような。

スマホの通信ができない状態で街中を歩いている時に、例えば道の少し先でめちゃくちゃやばい事件や事故が起こっている。私の周りにいる人たちがスマホの画面でそれを知って、方向転換してどこかへ歩いて行く。私はそれに気づかないか、困惑して不安になる。地震だったら否が応でも気づくけど。事件とか事故とか災害は、ちゃんと感知できるモノを動かして欲しい。空気とか、地面とか、致死性のない化学物質とか。

そういうものよりも確実に、早く、人間にとって必要な情報が得られるように技術が発達したことを忘れて、何かに憤ったりする。何を、責めればいいんだろう。

ルール。

世界は静かだし、通信は個別だな、とコロナでロックダウンしているロンドンを歩いた時にも、思った。みんな、外出とかスーパーの入店ルールとか、どこで知ったんだろう。テレビだろうか。私の家にはテレビがなかった。パソコンやスマホでは、世界の感染者数と死者数を載せたページを日課のように眺めて、あとは犬の動画とかを見て暮らしていた。自分が住んでいるハマースミス周辺のニュースなんて全然見なかった。結局そういうのは、友達がテキストメッセージで教えてくれる。今日ウェイトローズにマスクなしで入ったら、ガードの人に追い出されたよ、とか。

あるいは決定的な瞬間まで気がつかなくて、実際にガードの人に追い出されたりする。


情報。

札幌にいる私は、ここは日本というより日本語圏だな、と思う。ここ、というのは、札幌という街というより、もっと局所的な「私」のことだ。ヨーロッパにいたときも北海道にいるときも、私は同じように日本語圏にいる。同時に英語圏やドイツ語圏にもいることもある。でも、それだけだ。ご飯を食べたり本を読んだり排泄したり眠ったり友人と会ったりする暮らしのなかで、登場することのない土地や国の名前なんて、大して意味がないのだ。

だから地図には、黙っていてもらいたい。

いや、地図には、もっと喋っていただかないとならない。

病院に行けない状況で、妊娠したかもって思った時に、郵送で手に入る中絶薬の情報をくれたのは英語圏のウェブサイトだった。適切な手順を踏めば薬が手に入るという情報は、動転していた気を落ち着かせた。この世界の誰かが、この世界の他の誰かのために、どう考えてもそのひと個人の暮らしを超えたロジスティクスを整えていたことを私は知って、感謝し、そして忘れた。単に選択肢としてのみ、残る。結局、妊娠なんてしていなかった。
   

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