愛してるって最近言わなくなったのは

タイトルは何も関係ない。

最近寝れないのは日中に珈琲を飲み過ぎているからと、障害に関して考えざるを得ないからだろう。比較的信頼している人に話したが、やはりまだまだ理解が足りないなと思った。ただ、私が彼を一定程度信頼し尊敬する理由は、理解が足りないことを分かっていて、聞こうと心から思ってくれるところでもある。自分としても説明できるようになりたいなと考えていて、昆虫食のことを想像した。

昆虫食、最近はブームになったり抵抗が薄れてきてるけど、そこまで全員に両手を挙げて歓迎されているわけではないと言うのがわたしの見立てだ。だから、比喩としては、現代日本では、昆虫食はわかりやすいかもしれないと思う。

今目の前に、昆虫食への興味はあまりない、食べたことはない、むしろ若干の抵抗がある、という人がいるとする。彼あるいは彼女に、生まれつき昆虫を食べると死ぬと言う特性を持っていると想像してもらう。彼あるいは彼女は、別に特に問題だとは感じられないだろう。

しかし問題は、さらに仮定を重ねて、昆虫食が当たり前で、世の中の食べ物の8-9割くらいが昆虫を含んでいる世界にその人がいたなら、と言う時だ。社会の大多数も昆虫が好きで美味しいと思っていて、周りの人は、食べられないあなたの事を「体の機能が足りない人」時に「可哀想な人」として見なしてくる。あなたはその社会で生き残るために、昆虫の含まれない食べ物を探して日々を過ごす。昆虫はすり潰して様々な料理にコクとして入れられたりするので、危険を避けるため、よく確認して食べる必要があり、毎回原材料を確認して、店員に聞き、あるいはネットで情報を探すことが必要になる。そうした確認を繰り返すうちに、住み慣れた土地であれば、昆虫が含まれない料理がある店はどの駅のどの店で、どのコンビニで何が買えるのか、などの知識を全て自分に蓄積していくことができ、結果としてある程度自分に適した生活を送ることができる。1人で過ごす分には大きな問題はない。しかし周りは皆昆虫が好きなので、食事を囲む際には相手に付き合わなければならない。相手は相手で、「昆虫が食べれないxさんに合わせてあげている」と思う。そして実際に自分が食べたいものをどちらかが我慢するということもおこる。そうではない食事のシーンというのは基本、家族との食事だけだ。外で安全に食べられる店を探し、毎回人と過ごすことは時間的・精神的にコストになる。そうした諸々のコストに見合うと感じられる行動、外出先や人のみを選び付き合わないと持たなくなる。自然と自分には関係がないとして無視する情報が増える。住み慣れた環境を出るとしたらもっと大変だ。もしあなたが異国に行くのであれば、慣れない言語で、毎回昆虫が含まれているかの確認をしないといけない。命取りになるかもしれないから、一つのミスも許されない。もし外食をするなら、店員をどれだけ信頼できるかの勝負になる。たとえコミュニケーションにエラーがなく、店員が信頼に足る人柄だったとしても、それでも人である以上、物の取り違えなどのミスは起こりうる。あなたは時々ふと、でも別にやはり危険じゃなかったとしても、昆虫食は特に興味がないんだよなぁと思う。多くの人からは昆虫の美味しさを知らないなんて勿体無くて可哀想、酸っぱい葡萄と言われるかもしれないし、あなたは実際にそうなのかもしれないとも思い、完全に否定することは難しいと感じる。それでも、昆虫食そのものに興味ないあなたにとって、食べられないことそのものよりも他の文化の異なる多数派との調整の方が問題だ。二次的な問題の広がりようと、状況の改善を求めると全てが「弱者への配慮や包摂」とされることにうんざりし、何も言わなくなる。

ちょっといま自分が感じる気持ち悪さをかけた気がする。
だいぶ書いてすっきりした。寝よう。


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