やりすぎ病で疲れたのでやったことを数値化していったら心が軽くなった話

やりすぎ病と、やりすぎの沸点に気づけない病にかかってる。


これまででいちばんやりすぎた時では、2週間で10時間しか寝なかった。
直近では、1週間で3日徹夜した。

忙しい自慢や、がんばった自慢をしたいわけではない。
やりすぎ病は、その時それがやりすぎであることを理解できず、なおかつ、それをどうにかしなければ、と思えない状態のことをいう。
2週間で10時間睡眠とか、1週間に3回徹夜とかは、まさにやりすぎだ。

やりすぎ病は、自分がやらねばどうにもならんときに、発症する。

困るのは、やりすぎるたびに、沸点が更新されて、さらにやりすぎに気づきにくくなること。
そして、沸点を超えたであろう時の記憶だけはしっかり体に書き込まれていることだ。

コロナ鬱が流行り始めたころ、どこかの先生方が話していた。
心の健康状態が下がる時、1回目より2回目、2回目より3回目と、重ねるごとに、同じ体験でも症状が重くなり、瞬間的に落ちやすくもなるという。

3回目にもなると、諸刃の剣状態で、深く長く落ちるもんです、と言っていた。

今、相変わらず元気だし、あつくるしいことも平気で口走る余裕がある。
だけど、ある一つの場面を思い出したり、その場面で感じた感情と同じ感情を抱く場面に出会ったときには、涙が止まらなくなる。

思春期の恋するジョシか。

めっちゃピンポイントで、涙。
これが半月ほど続いている。

一時期は、普段の元気さも半分だった。
その時に比べたら鬼のように回復した。

ふだん余裕がある分だけ、全然大丈夫だと思う。
本当に心を痛めてしまっている人に比べたら、デビューを控えた競走馬ぐらい元気だ。

でも、もし、あのときと同じ場面になったら、今度は沸点をこえる自信がない。

そもそも、沸点をこえてしまうような自分の考えや、やり方があかんのだが、沸点をこえるときには、もはや寿命と引き換えにでもやらんとあかんと勘違いするほど、豪鉄の責任感をもってしまっている。

沸点にも気づかないし、沸点だと仮に気づいたとしても、やらんとあかん、が勝ってしまうのである。

困ったもんだ。

今回がやりすぎだったと気づいたのは、また次に同じ場面になったことを考えたときに、こわくて、かたまってしまったから。

ある意味、わたしの生命維持機能が正常に働いている証拠だ。
感謝せねば。

PDCAをまわす

対処方法は3つある。

時間で解決する方法、
沸点や沸点に至ったときの自分に気づけるようになる方法、
やりすぎなくていい環境に整備する方法だ。


おそらく、今の状態を一瞬で解決する薬はないように思う。
原因となる場面を避けて、自然に癒えるのを待つ。

時間で解決する方法、だ。

そして次に、もし同じような状況になりそうになったら、いち早く気づく。
沸点や、沸点に至ったときの自分、に気づけるようになる方法。

自分にとってのやりすぎな状態とは具体的にどんな状態か、そのとき、自分にどんな変化がでるのか。
どこまでが青信号で、どこからが黄色信号なのか。

ちゃんと明確な点を打って、持っておく。

そして、いちばん大事なのは、やりすぎなくていい環境にしておくこと。

沸点をこえるのは、わたしの場合、必ず、強い責任感が働いたときだ。
自分だけのために限界をこえることはない。

もしチームで動いているのであれば、ひとりでやりすぎることをやめて、自分がやらんとどうにもあかん状態を脱出できるための手助けしてもらう必要がある。

自分だけではどうにもならん。

それに、手助けをお願いする他にも、大事なことがある。

ちゃんと状況を、言葉にして伝えることだ。

沸点をこえてひとりで追い込んでやったとしても、まわりの人たちにしたら、そんなものは言われないとわからん、なのである。

やると言ってるから問題ないのだろう、やれたから大丈夫だったのだな、でしかない。

自分の状態も感情も、自分にしかわからない。
絶対評価だ。
当たり前の話である。

あとから、いやあれは限界だった、と言われても、そんなの困る。

私にしても、気を遣ってほしいわけでも、手間をかけてほしいわけでもない。

何としても自分がやらねばならん、と、きばってまで守りたかった人たちに、意味のわからん気遣いをさせてしまっては、本末転倒だ。

今までは、自分でやりすぎに気づけなかったのだから、仕方がない。
だけどこれからは、やりすぎになりそうな時に、「これ以上はやりすぎになるのでやらずにやれる方法を一緒に考えたい」と相談できるようにしておくことが、大事なのではないか。
そう思う。

そして、自分がいっぱいいっぱいになったときに、バトンタッチして他のみんなもできるよう、チーム全体を成長させる仕組みも整える。

「その時」がきたら、つよつよに成長したみんなに、ばんばん助けてもらおうという魂胆。
心電図みたいな波形を、長期でなだらかにする感じだ。

チームが強くなって成果までつよつよになるのであれば、一石二鳥。
涙を流した甲斐もあったというものだ。


今は、この3つを探っている状態。
PDCAのCとAだ。

癒えるに充分な時が経ったかどうかは、自分でもわからない。
まる1日元気だっからもう大丈夫だろう、そう思っていても、ふとしたきっかけでフラッシュバックして、涙が止まらなくなる。

外からの刺激を受けたときにしか気づけない。

こればっかりは、どうしようもない。
今日からもう大丈夫、って線引きはできないんじゃないかと思ってる。

だから、同じ状況に陥らないように、陥っても大丈夫なように、環境を少しずつ整えていく。

自分自身の心の角度も変えていく。
責任感で追い込むのではなくて、もっとものごとを楽しんで超えていけるようにしたいと思っている。

前提を見直す

今みたいな状態になって、ひとつやり始めたことがある。
まずは、ひとつの仮説をたてた。

やりすぎ、を定義すると、物理的なやりすぎの他に、「やったことの量=心が満たされたことの量」じゃなく、「やったこと>心が満たされたこと」と、バランスが崩れた結果、限界をこえる状態がうまれてくるのではないか。

やりすぎとは、睡眠不足や身体的なやりすぎだけではなく、心の中がやりすぎな状態も含むものなのではないか。

(もしかしたら、やりすぎ病罹患者以外のひとには当たり前の話なのかもしれない。書いていて思った。)

やったことを数値化した

その仮説を踏まえて、自分がやったことを数値化してみることにした。

やった事実に対して、それが喜ばれたか。
自分のHP(ヒットポイント)が上がったのか下がったのか。
かかった労力はどれだけか。

これを0から10までの段階ポイントで書いていくことにした。

それとあわせて、人からいただいたことがらも、「心が動いた点数」とともに書いていくことにした。

答えはすぐに出た。

私がやっていることは、人から温かい言葉をいただいたり、気遣いをいただいたりしたときとは比べ物にならないほど、大したことじゃない。

自分のことは過大評価するという、あれだ。
労力をかけたら、大変だったら、人に喜んでもらえる。価値あるものを提供できる、貢献できる。そういうわけではない。

右と左に並んだ数字のデコボコを見て、そう思った。

そして、ひとが本当に喜ぶのは、温かい心をかけてもらった時や、自分がした相談ごとやお願いごとに対して助けてもらったときだ。

それ以外は、よほどの潜在的需要をこえたとき以外は、
「好きでもなんでもない相手から、ゼーゼー汗だくになりながら、一輪のひまわりを渡されたとき」
ぐらいのありがとうだ。

頼まれてもいないことを勝手にいろいろやってきた系の生物にとって、なんともつらい事実を知ってしまった。笑

どうせやりすぎるなら、思いっきり喜んでもらえた方がいいではないか。
かける労力を、喜んでもらえるものに集中させた方がいいではないか。

温かさをいただいた時には心から感謝で満たし、頼まれごとをした時には全力で応える。
シンプルでいいな、と思った。

丁寧に頼み事をしてきてくださった方には、全身全霊で応えよう。
そう思った。

少し肩が軽くなった。

がんばって、でもシンプルに生きよう

人生っておもしろい。

いちばん成長できるのは、何かを達成したときではなく、苦しみの中から答えを見つけたときなのだろうと思う。
(今はそうであってほしい)

そして、ついやりすぎてしまっていた原因のひとつには、「心が弱いと思われたくない」「こんなことが限界だと思いたくない」見栄や強がりもあったのではないか。そう思った。

心が弱いんじゃない。
やりすぎてしまっているから、心が疲れるんだ。

やりすぎに気づけなかったんじゃなく。
本当は、「やりすぎてつらい」と口にしたら、自分は弱いと言葉にするようで、やりすぎていることに気づかないふりをしていただけなのかもしれない。

このnoteをここまで書いて、こう思うことができた。

がんばって生きよう。

やりすぎないほどにね。


ちなみに。

やりすぎだった前後1ヶ月は、ずっと口内炎ができていた。
少し落ち着いてからは、鼻の中がいつも血まみれだ。
(口から鼻へ、上昇傾向)
体は正直。
体の状態に耳を傾けることも、やりすぎ病を脱却するヒントなのかもね。

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