僕たちが「働く」ことについて
「仕事」というテーマを聞いて、パッと考えたのは「働く」ということについて。
結構前だが、こんなツイートを見たことが印象に残っている。
米国式の社会の理想像は「うまく投資して、35歳までに引退して、ヨットを買う」的なこと。あくせく働くのは負け組、という見方。しかし、何か変だ。世界中の子供は「将来〇〇になりたい」と、働くことを夢見る。「将来投資して、早く引退したい」という子供はいない。働くことは、憧れだったはず。
— Ozawa Kenji 小沢健二 (@iamOzawaKenji) November 16, 2019
とてもよく、共感してしまった。
きっと自分にも、働くことについて夢を見ていた時があり、そして、今があることを考えた。
実家には「将来の夢」みたいなコーナーの記録がしっかりと残っている。保育所での製作遊びや、小学・中学での学級文庫とか、書いた当時の事はぼんやりとしか覚えていないのだが、なんとなく親に書かされてみたような。もしくは、友だちとその時の流れで書いてしまったような。「将来の夢」に同じものは1つもなくて、全く統一感もなくて。今見ると、その仕事に憧れた記憶が全くない気すらしてきて。随分と流されて来たんだなあと、結構、恥ずかしい気持ちになる。
そんな自分は大人になり、看護師という仕事を続けている。自分は看護学校を卒業し、今の職に就いた。思い返すと、教員たちはやはり、その道のプロフェッショナルだったと思う。学校を卒業するときに教員たちから、「看護の道はここから始まったばかりですよ〜!」と言われて卒業したことを思い出した。在学中の話だが、教員たちへ何かを話すと、だいたい「なぜ?」と問い返された。しつこい位に問われ、そして正される。きっとそれは、その道を極めるためには大切なことで、看護の「プロ」が持つべき姿勢なのだと思う。きっとこの仕事を志した人は皆、学生時代にこの訓練をしていると思う。スキルに関しては、その道に入り学ぶことが多いと思うが、訓練されたその姿勢があることで、メキメキと技量を身につけていく。そしてそれは非常に逞しい。
スキルを身につけた「プロ」は、看護という仕事を「人生の道」として考えていることが殆どだろうと思う。
米国式のグローバル社会が広がると、米国式の考え方、働き方は広がる。「仕事を道として考えるなんて、古い考えだ」と。でも、米国式の考え方や働き方は、米国を幸せな社会にしてきただろうか? 僕は、また多くの米国人は、そうは思わない。むしろ、米国式でない、新型の日本式があれば、と思う。
— Ozawa Kenji 小沢健二 (@iamOzawaKenji) November 16, 2019
確かに!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?